12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2558)
講題「人間として成長・成熟すること」の講演録を加筆修正したもの
こんばんは。ただいまご紹介いただきました、大分からまいりました田畑です。
以前は、今から5年前は名古屋からずっと上(北)にあがりました、長野県飯田市の飯田女子短大というところの看護学科で、「医療と仏教、ビハーラ」という話を5年間月一回の集中講義で講義をさせていただいておりました。今は京都の龍谷大学で、実践真宗学研究科という新しい大学院が5年前から始まりまして、そこで週に2日ほど仕事をしています。あと4日は大分県宇佐市の方で医療の仕事に従事しております。医療と仏教の両方で仕事をしながら、今、医療・看護・福祉の領域で本当に仏教的な世界が大事だなということを思わせていただいております。
今回、別院で人生講座という名前で、依頼を受けましたので、やはり人生を考えたときに仏教を学んでいくということは人間とし成長し、成長というよりは成熟していく道なんだということを思わせていただいておりますので、その辺のところを少しご紹介させていただこうかなと思っております。
仏法との出遇い
私は大学生の時に細川巌[1]という先生に出遇いまして、それ以来、細川先生を中心とした僧伽[2](さんが)でお育てをいただきました。東本願寺系の先生方との接点の方が多かったように思います。
私が40歳の頃、仏法を聞き始めて17年か18年ぐらいたったときに、私は大分県の中津の国立病院で外科の責任者をしておりました。消化器外科の領域で胃がんとか大腸がんという悪性腫瘍がどうしも多くて、6割の患者さんは手術をしてよくなっていくのですけども、4割の患者さんは手遅れであったり、再発をしたりということで、結果として亡くなって退院ということになるわけです。そういう亡くなっていく人たちに対してどういうふうに接したらよいのだろうということが私の直面する問題としてありました。そこで私が仏法の会座で、細川先生に「亡くなっていく患者さんにはどういうふうな心がまえで対応していったらよいでしょうか」と質問しました。そしてら、先生が2つ大事な点があるといって教えてくれました。
仏さんがいらっしゃる
そのひとつは「おまかせするということをしっかり言ってあげなさい」。これは私は、医療は医師、看護師におまかせ、家庭のことは家族におまかせ、職場のことは同僚におまかせという形で、おまかせするということはしっかり言ってあげることができると思ったんです。
二つ目に、「仏さんがいらっしゃることをしっかり言ってあげなさい」とこう言われたんです。40歳の時に「仏さんがいらっしゃるということをしっかり言ってあげなさい」と言われた時に私はちょっととまどいました。なぜかといったら、仏さんがいらっしゃるということはずっと聞法して、まさに仏教の核心の部分のはずなのに、自分が患者さんに、「仏さんがいらっしゃる」ということを言うことができなかったのです。仏さんということを自分なりに受け取り、消化して、自分の言葉として言えなかったのです。浄土真宗にご縁のある患者さんに対しても、「仏さんがいらっしゃる」と言ってあげようと思っても、私が受取れていないわけです。仏さんがいらっしゃるということが自分の体を通して受取れてない。受取れていないことを「仏さんがいることを信じなさい」という言葉だけを伝えても説得力もないし、やっぱりなんていうか、うわついた言葉になってしまいます。
40歳の時に、そのことが私の課題になりました。聞法しながら仏さんということがまだ分かってないなということが、はっきりしました。そのことがその後の私の聞法の課題になりました。それからずっと学び続けています。浄土真宗というのは私自身の経験を含めて、「一生、聞いていく教え」なんだなということを教えられています。
卵のたとえ、卵からひよこへ
仏法への大きなご縁(きっかけ)になった細川先生の「卵のたとえ」を皆さんにご紹介させていただきます。私たちは生まれたままでは卵の殻の中にいるような存在なのだと。この殻というのは自己中心の思いということです。今風に言うと、理性知性を中心とした分別というあり方の殻の中におるんだ。そして、誰からも教えてもらわないのに皆、しあわせを求めて生きている。そして考えることは、しあわせのためのプラス価値を上げて、マイナス価値を下げていけばきっとしあわせになる。そしてみんなから良い人間だと思われたい。悪い人間だと思われたくない、と善悪を考える。できることならば得になることを心掛けていこう、損になることには近寄らないようにしよう。できることならば勝ち組と言われる方に入りたい、負け組の方には入りたくない。こういうことをしっかりと考えてしあわせになっていくという方向性、ほとんどの人がそう思って生きています。
しかしながら、卵の中にいる私は、善悪、損得、勝ち負けに振り回されながら、卵はくさって卵の死を迎える。卵は死ぬために生まれてきたのかというと決してそうじゃなくて、親鳥に抱かれて、親鳥から熱を受ける。この熱を仏教では教えと言います。浄土真宗の場合は南無阿弥陀仏の教えです。南無阿弥陀仏の教えをいただいていくと、卵の中の卵黄が育てられ、ものを見る目、考える頭、食べるくちばし、羽ばたく羽、人生を歩む足ができて、時期熟してひよこになる。ひよこになってみて初めて殻の外に大きな仏さんの世界があるということがうけとれるようになってくる、同時に自分がしっかり考える、理知分別という殻の中にいたことを知らされる。そしてひよこになった存在は、仏さんの世界からの智慧、無量光に育てられ、ついに親鳥(にわとり)になっていく。鶏になるとは仏さんになっていくことです。こういうお話を始めて聞きまして、私はその時22歳で、22年間の歩みはまさに卵の殻の中の自分の生き方を先生は図星で言われたような気がしました。しかし、私は世の中それしかないと思っていたのに、先生はそれは殻の中の世界なんだ それを超えた世界があるんだとこう言われましたからちょっとびっくりしました。
成熟への道、被教育者としての道
質問の時間がありましたから、先生にそういう世界に出てみたいんですけどどうしたらいいでしょうかとこう聞いたら、「毎月1回こういう会をしていますから1年続けてみてください」とこうおっしゃいました。で1年続けました。1年続けたところで先生へ「まだよくわかりません」というような感想を言ったら、「田畑さん、3年続けたら分かりますよ」とこう言われて、今日まで40年近く続いているのです。その後、3年の途中で仏法は一生聞いていく教えなのだなと。だから一生教育されるというか、仏法によってお育てを頂く道なのだということがわかりました。仏教が分かったのじゃないです、方向性が見えたということです。
今日の講題に関係する、「人間としての成長・成熟」がまさにこの理性知性で生きていた私たちが仏さんの智慧をいただくという歩みをしていくことを通して、人間として成長し成熟していって仏さんになっていくという、このプロセスが人間としての道、歩む道として、私たち人間にとって非常に大事な問題なのだと思うのです。
40歳の時に、「仏さんがいらっしゃる」ということを言ってあげなさいと言われたけれども私はその当時それを言ってあげる力がありませんでした。でも今だったら「仏さんがいらっしゃる」ということを言うことができます。お話の流れで紹介しますけども。私たちの先生は仏法を学ぶ上で大事な点として次のような質問をされました。一つは「仏さんはいらっしゃいますか?」。この問いをもつことが大事なのだと。この「仏さんはいらっしゃいますか」という問いに対して答えを知っているというのではなくて、「問いをもって歩む」ことが大事ですとおっしゃいました。そしてこの「仏さんがいらっしゃる」ということが少し受け取れるようになってきたら次は、「仏さんはどこにいらっしゃいますか?」と次の問いがでてきます。「仏さんはどこにいらっしゃいますか?」この二つの問いは答えを知っているというよりは問いを持って歩むということが救いにつながるとも教えていただきました。仏法のお話を聞いてゆく歩む中で、ポイントになる言葉、問いとして「仏さんはいらっしゃいますか」、「仏さんはどこにいらっしゃいますか」があります。皆さん方はどう答えられますか。(つづく) 2014年7月3日 大谷派名古屋別院「人生講座」 |