1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2558)

講題「人間として成長・成熟すること(2)」の講演録、加筆修正、(大谷派名古屋別院「人生講座」 )前回の続き

問いを持つことが救いへつながる

 今、私が龍谷大学でお寺の子弟が8割くらい在籍する学部の学生さんに「仏さんはいらっしゃいますか」って聞いたら、ほとんどの学生がよくわかりませんと。非常に素直で分かったふうをしない……、それはそれでいいわけですが……。でも仏法を学ぶ者にとって「仏さんがいらっしゃる」ということが分からんといったらまさに核心のところがわかってないということでもあります。ですからこの「仏さんはいらっしゃいますか」「仏さんはどこにいらっしゃいますか」という問いを持つことが救いになっていくんですよと先生は教えてくれました。私もああそうだなと、答えを知っているんじゃなくて、そのことを考え続けていくという歩みが、私たちが仏法の歩みで大事なんだなということを思わせていただいております。

医療の現場での現実

 分別という思考の殻のなかでしあわせを目指して生きていくという方向性。今私は、臨床の現場でそういう患者さんをよく目にするわけです。ご紹介したいのは今年の2月に89歳で肝がんで亡くなった元中学校の数学の教師がおりました。ちょうど私が10年前、前任者から引き継いだ患者さんで、この方は糖尿病、高血圧、C型肝炎という病気を持っておりまして、奥さんがC型肝炎からガンになって亡くなるということを経験している人なのです。真面目で病院に週に3日、がんになる率を少なくするという注射がありまして、専門医の方が3ヵ月に1回来て診てくれて、あとは私のところに注射を受けに来られるのです。週に3日来ますからだんだん人間関係ができてきます、いつも会うような感じで世間話をしながら患者さんの生活状況が分かってくるわけです。あるときに、日曜日と祭日が重なった時にこの患者さんが、「先生、今度月曜日休診で1回欠けるけど大丈夫でしょうか?」と私に聞かれるのです。当時患者はちょうど80歳前後でしたから、「いやあ先生、もう平均寿命を超えてますよ。鷹揚でいいじゃないですか」と私が言ったら、「がんになったらお終いですからね」と、こう非常にまじめに言うわけです。
 それからそういう会話を時々するから、今度はわたしがちょっと誘いをかけて「先生、仏教の勉強をしませんか。もうちょっと鷹揚に生きて行けますよ。そうがんになる取り越し苦労ばっかりせんで、『今、生かされているということ喜ぶ』ような受け取りができる生き方をされたらいいんじゃないですか。」とこう言ったら「わしゃまだ仏教の勉強をするには早い」とこう言われました。
 人間関係が十分にできてからのことでした、職員があの人は浄土真宗の門徒さんですよ。東本願寺の末寺の門徒さんですよと教えてくれました。浄土真宗の門徒さん分かったので、次に来られた時、「先生とところは浄土真宗だそうですね。南無阿弥陀仏の心が受け取れたらもうちょっと鷹揚に生きて行けますよ、仏教の勉強をしませんか」と言ったら、「わけの分からない南無阿弥陀仏、だけは言いとうない」とこう言うわけです、さすが数学の先生です。
 「お寺に行ってお話を聞くとよいですよ、お寺に行きませんか」とおすすめするのですが、なかなか行かないのです。80歳になるまでにほとんどお寺に行ってないのです。「先生、お寺にいってお話聞いたらいいですよ。」というと、「お寺に行っても女ばっかしや」と言われるのです。「それは先生、女の方が平均寿命が高いからどうしてもお寺に行くと女性が多いんですけど、そんなの男も女も関係ないじゃないですか」というけどなかなか。80歳になるまでお寺にいかない人は仏法を受け取ってもらうのがなかなか難しいなと。
 この方は仏教の方には近寄ろうとしない、例えの卵の殻の中で生きていこうとしているわけです。私との会話の中で少し仏教の話にうなずくかなあ、ちょっとなびいてくれるかなと思いながらも、すぐまた元の木阿弥です。私がちょっと強めに「先生、お念仏が大事なのよ」というよう内容の話をすると、「それならお念仏したら病気がようなるんかえ」と言うわけです。お念仏したら病気がよくなるのか……、とそれはちょっと困りますけども、そのお念仏に触れるというのがなかなかむつかしいのです。

健康で長生きの方向性が挫折

 この先生もついに85歳の時に肝がんがみつかりました、発症しました。今までは『健康で長生き』と生きる方向というのがはっきりしていたのです。そしたら、この方向でついにがんになったのです。奥さんがその病気で死んだという事を経験している。自分も同じルートをたどるようになったのです。十分に老いた。あっては困る老病死に直面してしまった。生きていく方向性がぐらぐらぐらと否定されるみたいになっているものですから、時々感情失禁みたいな形で表情に出てくるのです。ある時、タレントの植木等が死んだときに、あれと同じ世代なのだと、自分も死ぬのか……、とちょっと涙もろくなったりしていました。感情失禁でちょっとした体調の変化でも「死ぬんじゃなかろうか」と心配をしていました。
 肝がんの治療を受けに一旦は大きな病院に行ったのですけども、途中でこれ以上治療を受けたくないと言って逃げて帰ってきました。そうするとまた私のところに通院で来られるのです。がんになってしまった以上は、今のところ月に一度の通院で良いわけですが……。来られた時、がんになったのだからがんになる予防の薬は注射しなくてもよい、と言おうかと思ったけど、なにもしな…いと……、何もしないと落ち着かない雰囲気でしたから専門医と相談して週に3回していたのを1回か2回くらいで続けましょうという話になった。
 85歳で発症して、去年88で今年89歳で亡くなりました。もしかしたらあの時集中治療していたら早く死んでいたかもしれないなと思いながら、治療しなくてよかったかなと思ったりもしています。
 この先生も時々強がりを言うわけです。「死ぬ覚悟はできとるんじゃ」とこういうのです。私がちょっといやみで「先生、死ぬ覚悟ってどんなのですか、ちょっと教えてくださいよ」と言ったら、お葬式の時の写真の用意はできているとか……、いろいろ言っておりました。「でも先生それは死ぬ覚悟じゃないじゃないですか、葬式の準備じゃないですか」とつい嫌味で言ってしましました。

自分の身体を引き受ける責任者になれない

 ある時はこんなこと言うのですね。「運命だ」と。「運命だ、あきらめるしかない」とこういったのです。私はその言葉を考えながら仏法の教えと照らしあわせながら、思わせられたことは、私たちの一番拠りどころとするところの理性知性の分別は、健気(けなげ)にも訳の分かるものを積み重ねて堅実な人生を生きていく。そして、その途中に私が「先生、南無阿弥陀仏が受け取れたらいいですよ」と言って、「南無阿弥陀仏」をその一つに入れませんかと提案したけど、「わけのわからん南無阿弥陀仏だけはいやだ」と言ったのです。自分で考え堅実な人生でわけのわからるものを積み重ねてきたわけです。しかし、最後の最後になって「運命だ、諦めるしかない」と。この発言はなにを教えてくれているかと言ったら、自分の理性知性だけで人生を生きていこうとすれば最後には自分の身を引き受けていく責任者として全うできないということをこの患者さんは教えてくれました。
 自分の身を引き受けていく責任者を貫こうとするならば、わけのわからん運命をいれてほしくないわけです。わけのわからん南無阿弥陀仏を拒否するならば、わけのわからん運命も拒否しないといけないのに……、ついに運命に身をゆだねざるを得ないという事になったのです。私たちがまさに理性知性でずっとしあわせになっていくんだと生きて行こうとするとき、結局、最後には「運命だ」という発言になる。そしてその延長線上に、老いにつかまり、病につかまって死ぬ、世俗のものさしで言うならばまさにマイナスのマイナスのマイナスで「不幸の完成」で人生を終わる。(つづく)

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