2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2558)

講題「人間として成長・成熟すること(3)」の講演録、加筆修正、(大谷派名古屋別院「人生講座」)前回の続き

殻の中のままで人生を終わる

 この患者さんは去年の11月になってから種々の症状に対して、だんだんお家で対応できなくなってきました。十分に高齢になっている。病気が進んだ。外来に来られた時に私が先生もうお家で対応できなければ、ちょっと入院しますかね、とこう私が言ったのです。そしたら先生がね、大分の方言でね、「入院せないかんちゅうのはつまらんごとなったんじゃのう」とおいおい泣かれるわけです。まさにそのマイナスのマイナスのマイナスでつまらんごとなったと言ってですね。
 その入院してからは、回診をするときに、病状が進み、かゆみが出たり、お腹に水がたまったりして、診察しながら話をすると、先生が、「この病気はようなるじゃろか」「この病気はようなるじゃろか」しか言わないのです。まさにプラス価値をあげてマイナス価値を下げることがしあわせだという、この考えにどっぷりと、言うならば今の科学的合理主義思考にどっぷりと骨の髄までしみこんで、プラス価値を上げてマイナス価値を下げることが人生の生きることだと。そして、わけのわからん南無阿弥陀仏は言いたくないと言って、結局、亡くなっていきました。私にとっては本当に、そういうことを身をもって教えてくれている菩薩としての存在だったな…、ということを思わせていただいております。

年をとることは楽しいことですね

 臨床の現場でいろんな人生を見させていただきます。人間として成長し成熟していく道かどうか……、この患者さんの場合は私にとっては本当に仏教を教えてくれる存在でしたけども、本人はどうだったかというのはちょっとまあ……不本意だったかもしれませんが。
 東本願寺の京都にあります大谷専修学院に院長先生を長くされた信国淳先生がいらっしゃいました。先生は私と同じ大分県の宇佐の出身ですけども。この信国先生が本の中で「年をとるというのは楽しいことですねえ。今まで見えなかった世界が見えるようになるんですよ」と書かれています。理知分別で能率効率を考える思考でいけば、「年をとることは楽しいことですね、今まで見えなかった世界が見えるようになりますよ」というのはちょっと出てこないですね。
 今、私が臨床の現場で出会う多くの高齢者は80歳をすぎたら、「先生腰が痛くなりました」と診察室に来られるから、病歴をとりながら、「いつごろから痛いんですか」と聞くと、「いや腰だけじゃありません膝も痛いです」と言う、「膝もね」と言ったら、「先生、年取ってなんもいいことないね、目はうすなるし耳は遠くなる」と言ってですね、自分の悪いところや、できなくなったことをいっぱい私に教えてくれるわけです。私が時々ちょっと、「あなた今まで80歳になるまで腰は痛くなかったのね。よう長いこと腰があなたをささえてくれたんよ。腰にありがとうとお礼を言っていますか」と言ったら、「そんなこと考えたこともありません」とこう言うのです。そこに自分が存在するということを当たり前にしてしまって、そのうえで何かおもしろいもの、たのしいこと、うれしいことないかなと言って、まさにこの発想、思考で生きていくわけです。
 臨床の現場でそういう高齢者と接しますと、まさに世俗のどっぷりとした価値観を生きている人たちに、自分もそうですけど、そういう発想の世界を見せていただきます。

おいしいもの食べて楽しまなければ損ですよね

 最近経験した患者さん、今(7月3日現在)まだ存命の方がいらっしゃいます。この方は82歳で去年の4月に胃がんと言われたのです。そして宇佐市の医師会病院で手術できない状態ですと言われている。そこで一人の医師が診断しても本当かどうかというので、北九州の医療センターで診てもらった。やっぱり胃がんで手術できませんとこう言われた。今まで普通の生活をしていた人がもう手術できない状態と言われてびっくりして、なんとかなりませんかというので、医療センターから服用する抗がん剤をもらっていた。そうすると、どういうわけか副作用で口内炎になって口が荒れる状態がでてきまして、食事を食べることができなくなって、口が荒れて、手術できない進行した胃癌の状態で食べることが十分にできないことになってきたものだから、その時の主治医が「あと3ヵ月です」とこういったのです。
 それから私が相談を受けました。いろんな薬を飲んでいたから、そんなに食べることができないのであれば糖尿病の治療は止めてみましょう、食べれないということは食事療法ができているような状態だし……、高血圧の薬も食事が十分に食べれないのならば、減塩食の食事療法をしているようなもんだから高血圧の薬も止めとこう。服用している抗がん剤も100人に一人か二人ぐらいしか効果がないから、これも止めときましょう。こういって止めてもらいました。何も飲まないと気持ちが落ち着かないと言うから、漢方の薬を飲んでいるというから、それは続けて飲んでみたらいかがですかと。
 そしたら2週間くらいしたらびっくりしたことに、外来に自力で歩いてこられました。「先生、食べることができるようになりました」と言って。がんという病気が原因で食べれなかったのではなかったのです。副作用の影響で食べることができなかったのです。それからしばらくした頃、この方が外来通院で診察に来られた時、「今から大分県の国東というところにおいしいものを食べに行くんだ」と。1時間くらい時間のかかる所です。病気の人が、「そんな遠いところまで食べに行くの」と聞いたら、「いやあ先生、おいしいもの食べて楽しまなければ損ですよね」とこう言われたのです。まさに損得勝ち負けで世俗の価値観を生きていると思われる患者さんです。

宗教にほとんど関心がなかった

 ちょっと調子が悪くなったときは私が時々、自宅に往診をしていました、ある時、去年の秋すぎでした、ご主人が、「先生、こんどねえ仏壇買ったんですよ」と。そしてお坊さんにきてもらって入仏式をしたらね、患者さんの「家内が非常に喜んでくれて、よかったんですよ」と、私に教えてくれたのです。そこで私が「おたくは何宗ですか」と聞いたら、そのご主人も奥さんも、「うちは真言宗です」とこういうわけです。大分県の宇佐市に真言宗のお寺はどっかあったかなあ……、あまり聞かないのです。
 一回仏壇を見せてくださいよと言って、仏壇を見せてもらったら浄土真宗のお東の様式の仏壇でした。この患者さんは宗教に関しては関心がなくて、まさに世俗どっぷりで生きてこられたのです。「おいしいものたべなければ損ですよね」といって。しかし、家の宗教は浄土真宗のお東の門徒さん。
 しかし、病状は確実に進みました。去年の暮れに食べれなくなりまして、吐くようになってきた。ついに………と思って、時々摂取量に応じて補液の点滴をはじめました。最後まで家庭でお世話をしたいという家族の意向で支援していたのですが、1月になって家庭の事情で、ちょっと介護力がおちる1週間があるから、「その間は入院させてください」、というから、「入院していただいてよいですよ」と言って入院をしました。
 入院して1日、患者に天井を見ながら点滴だけしておくのもどうももったいないなと思って、この患者さんは、意識はしっかりとしている。しかし、病状はがんで進行しており、余命3カ月と言われていたのですが、ずーっと延ていますから。そして入院でしょう。浄土真宗の門徒さんとわかったから、観無量寿経の中で、下品(げぼん)下生(げしょう)のところに、死ぬ間際の人が苦しんでいる時、善知識が仏さんのことを観想(かんそう、仏のイメージを思う事)しなさいと勧める、しかし、苦しくて仏さんのことを想うこともできなければ、ただ口に南無阿弥陀仏と念仏しなさいと勧められ、口で南無阿弥陀仏と念仏して救われる、というところがあるから、お念仏が本当にそういう展開を遂げるかどうか実験してみたいと思って、患者さん本人と家族(夫)に、私、現在龍谷大学にいって浄土真宗を大学院の学生さんといっしょに勉強しているから、法話を入院中、毎日昼休みの時間に50分ほどさせてくれないかとお願いをしました。(つづく) 

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