3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2558)

講題「人間として成長・成熟すること(4)」の講演録、加筆修正、(大谷派名古屋別院「人生講座」)前回の続き

病室で法話

 これは治療と全然関係なく、これを拒否しても治療に関しては全く影響ありませんと説明して、ただ私がこれをしてみたいだけだから……、と言いました。すると「お願いします」とこういってくれたのです。そこで個室にホワイトボードを持ち込みまして。まったく素人というか仏教に関心のなかった人に分かりやすく法話をしようと考え、仏教とは、浄土教とは、などとお念仏の心を何とかわかりやすくと毎日50分ほどお話をしました。途中で「止めてくれ」と言われるかなと思ったのですが、患者さんも、夫も眼を輝かせて聞いてくれました。どうですかと聞いたら、患者は、「「先生言うことがよくわかる」と言われるのです。多少はおべんちゃらもあるかもしれませんが、目を輝かせていました。ご主人も、こんな世界があるのか、はじめて聞いた、目からうろこが落ちたとおべんちゃらでも言ってくれるわけです。それで6日間ずっと続きました。
 そしたらね、「先生、お念仏するのに抵抗がなくなりました」。わけのわからん南無阿弥陀仏だけ言いたくないじゃなくて、お念仏するのに抵抗がなくなりました、そして「死ぬってそんなに心配せんでもいいんですね」、と、おべんちゃらかどうか知りませんけど言ってくれました。そして1週間して退院となりました。
 しかし、自宅に帰りましたら……、私の本などを貸してあげたりしてたんですけども、おうちに帰るとお見舞いに来る人たちはみんな、「おいしいもの食べなければ損ですよね」と、おいしいものいっぱい持ってくるわけですよ。そうするとまた元の木阿弥みたいな形になるのだろうけども、しかし一旦そういう話を聞いているものだから、やっぱりちょっとなにか、家族が言うには、「先生、ちょっとおだやかになったんですよ」と言ってくれました。
 桜はもう見れないだろうと思っていたら、4月を過ぎました。私4月に1回、死亡診断書を書いて用意していたのです。そしたら桜を超えて5月になった。診断書の日付を5月に訂正した、しかし、6月に入り込み、6月を越えました。私がいないときにでも診断書で留守番の医師に迷惑をかけないように書いて頼んでいるのです。またこの患者さんが「先生、なかなか死ねないね」と私に言ったこともありました。

医療で可能な延命が患者のためになっているかどうか

 現在、がんの緩和ケアでは痛みを緩和する技術は進んでいます。痛み止めの麻薬、モルヒネを服用できなくなっても、食べられなくなってきたら、飲めなくなっても、貼る麻薬があるのです。湿布薬と同じ、貼る麻薬。それで痛みがとれるのです。飲む食べるができないときは、補液の点滴です。補液の量は入れ過ぎず少なからずといって一番理想的な量を処方します。
 私は患者さんを診ながら、痛みをとる、補液の点滴で延命をするということが、本当に患者に良いことをしているのだろうかと思うのです。患者さんが時間を持て余して退屈してしまうのではないかと思われるのです。退屈、天人五衰という事があります。その中に「本座を楽しまず」、というのがあります。だから延命の技術が進み、延命ができると、じわじわと弱っていく、そういう状況を患者が喜んで受け取めているかどうか。
 食べれなくなってきたら治療をせず、1週間でおだやかに亡くなる。これの方が私はいいのかなという思いが頭をよぎるのです……。
 普通、自分が本当に生かされているということがわかれば、「生かされていることで果たす私の役割を精一杯生きます」。「命のあるかぎりは精一杯生きさせていただきます。南無阿弥陀仏」と。こういうふうな生き方を示したお念仏の方の話を聞いたことがあります。それが生きているのが当然、当たり前で、生かされているという気づき、目覚めを今までしたことがない人がいるのです。そうすると生きていても「おいしいもの食べなきゃ損よね」と生きてた人たちにとっては食べることもできなくなった。しかし、痛みはとれて管理できている。意識はしっかりとして命は延命されている。そうすると「退屈に近い思い」にいるのではないかと思われるわけです。
 生かされているかぎりは精一杯、ご恩に報いるはたらきを果たさせていただきます、南無阿弥陀仏と。そういう風におだやかに亡くなっていったら良いだろうと思うことがあります。しかし、死の縁、無量なりというようにいろいろなご縁で、どういう終わり方をするかはとらわれるべきではないと思います。
 現在の医療現場では、痛みをとって延命をずっとしているわけです。経験的に食べれなくなったら1週間で亡くなるのですけども、補液の点滴をすると、末梢からの点滴ですると約2か月間ぐらい伸びることがあります。その2か月間を患者自身は長生きしてよかったと喜んでいるかというと……、どうも喜んでいないようなのです。だから今の医学・医療は患者に本当によいことしてるのかどうかよくわからないように思います。
 何を言いたいかといったら、ここに仏教、お念仏の心をいただくということがなかったら、どうしても理性知性分別でプラス価値をあげてマイナス価値を下げて、しあわせになれるという思考を出ることができない。結局はどうもならない老病死に直面して……、思い通りにならないと苦悩していく。たぶんこういうのを仏教は「愚か」といってるんじゃないでしょうか、愚かと。

仏さんはいらっしゃいますか?

 そういう愚かで、迷いを繰り返す私たち凡夫に仏はお念仏、南無阿弥陀仏というお念仏となって、智慧といのちを届けたい。法蔵菩薩は起こされた本願の中で、「南無阿弥陀仏」という名号、声になった仏さんとなって私たちに智慧と慈悲のはたらきを届けようとされている。
 私は40歳の時、「仏さんがいらっしゃる、ことをしっかり言ってあげなさい」、と仏教の師から教えていただいた時に、そう言うことができなかったが、65歳を超えた今の私は、理知分別で生きている私たちの在り方を、本当に「愚か」で「迷いをくりかえしている」ということの真実を教えてくれる“はたらき”においては、南無阿弥陀仏の“はたらき”智慧において私たちは「仏さんはいらっしゃる」、仏さんははたらいておられるわけです。そして同時に念仏するものを浄土に迎えとると、摂取不捨していただけるそのはたらきにおいて、「仏さんはいらっしゃる」ということを、自分の味わいとして患者さんに伝えることができるわけです。「仏さんはいらっしゃる」ということを、今だったら伝えることができる。
 ある大学院生に仏さんはいらっしゃいますかという質問をしたら本尊の、ここは絵像ですね。龍大の大宮学舎の本館には阿弥陀如来の立像、木像を安置しておりますから、「あの阿弥陀如来像が仏さんじゃありませんか」とこう言うわけです。「仏さんはいらっしゃいますか?」という問いに対して、対象化して、阿弥陀仏の立像が仏さんじゃありませんかと言われたら、ちょっと困るわけです。どうしてかというと、私たちの理性知性はどうしても対象化をして、自分と切り離して向こう側に見る。そういう思考の訓練をずっと客観的に物事を見るという訓練を学校教育でしてくると私と無関係に向こうに仏さんがあるみたいに思ってしまうわけです。
 私たちは、小中高校教育、いつの間にか「仏」とか仏の「救い」というイメージを作り上げているのです。そんな私たちが仏さんの話をじっくり聞いて、長いお育てをいただいて、少しずつ生きている仏教を受け取れるようになってきます。その時点で思われることは、自分が学校教育などでイメージした「仏」とか「仏教の救い」は全部間違いだったということです。だから自分が勝手にイメージした仏さんとか仏教の救いとかこれは全部間違いなんです。間違いといったらちょっと失礼かもしれませんけど、こっちが自己流に想像しているだけでは本当の仏教の救いというものがわかってないわけです。
 それがだんだん仏さんの世界を少しずつ知らされてくるというか、受取れてくるというか、仏さんが言っていることが本当だな、仏さんの言われていることが「その通り」だな……、といって否応(いやおう)なしにうなずかざるを得ない。そういうのが仏さんの智慧(無量光)に照らされたということになります。その仏さんの智慧に照らされる(照育、照破)ということがこの卵がひよこになって、そしてこのひよこが仏さんの智慧に照らされていってついに仏さん(親鳥)になっていくんだと。こうなっていくことが人間としての成熟ということだろうと思うのです。(つづく)

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