5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2559)
講題「人間として成長・成熟すること(6)」の講演録、加筆修正、(大谷派名古屋別院「人生講座」)前回の続き
人間としての成熟「見えなかった世界が見えてくる 」
今まで見えなかった世界が見えてくるということがあるわけです。今まで見えなかった世界が見えてくるというのは先ほど、40歳の時には「仏さんがいらっしゃる」ということが自分自身でよく受取れなかった。そしてそのことを自分が味わいとしてお話することができなかった。でも今だったら私の愚かさと、私の迷いの姿をはっきりと知らしていただく“はたらき”において、仏さんを確実にいらっしゃる。そして念仏するものを浄土に迎えとるという摂取不捨の“はたらき”において「仏さんはいらっしゃる」ということは、今だったらその味わいを患者さんにお伝えすることができるわけです。
この卵のたとえ、この卵の殻がやぶれてひよこになるということ、このたとえは非常に分かりやすくていいたとえです。私は初めて聞いたときから、今でもいいたとえだなと思って使わせていただくのです。けども、もしこのたとえを覚えたとします。すると、「私はもうひよこになったんだろうか」「私はまだ卵の殻のなかかな」ということがやはり気になるようになります。で、私は卵の殻の中なのかなぁ……と。もう殻は破れてひよこになっているのかなあ……と。たとえというのはどうしても万能のたとえはなくてやっぱりちょっと欠点があるわけです。
私たちの先生は、「ひよこになっても殻がしっぽにちょっと付いてるのだよ」とおっしゃっていました。私が生身で生きているかぎりは殻が完全になくなった、ということが言えないわけです。しかし、言えることは、「ひよこになったのか、まだ殻の中におるのか」と、これは仏さんしかわからないのかもしれません。私たち人間では自分の次元を超えた世界、仏の智慧の世界を私が分かったということは無理なことかもしれません。仏さんの智慧の次元というのは。
次元を超えた世界
有名な作家の司馬遼太郎さんが大阪外語大を卒業して産経新聞の記者として京都で京都大学と本願寺の係をされていた新聞記者の時代に、本願寺に行って、「浄土はあるのか」と聞いたそうです。そしたら本願寺のお坊さんが「浄土はあるとかないかの上にある」と答えた、ということを聞いたことがあります。
私たちは世間で生活をしています。五官 [1]で認識できる世界がすべてだという発想の世界です。そこで「浄土はあるのか?」と問えば。五官で認識できない世界は「ない」となります。仏の世界では法蔵菩薩が建立した浄土はあるのです。浄土とは一般名詞で仏の世界(場)を浄土と言います。個々の仏に個々の浄土があるのです。浄土教では一般には阿弥陀仏の世界を浄土と呼びます。仏とは悟る、目覚めるとか、生死を超える、という表現で示すように世間を超えた、次元を異にする世界という方が適切な世界です。この世、世間で「あるのか?」と問われると、あるとかないとかの上に浄土はある、と言わざるを得ないわけです。五官で認識し、客観性を尊重する発想のこの世(世間)には仏は確実にはたらいているのですが、そのはたらきを認識できない一般の人には「ある」という事が分からないのです。私たちの客観的思考を尊重する発想ではわかったとは言えないことだと思うのです。仏の智慧の世界の話ですから、次元を超えているわけです。
あの有名な金子大栄師が「在家仏教」という雑誌の中で書いていたのは、数学で点というのがあるが、点というのは位置はあるけど幅がないんだというのです。この幅がないような点どうしたら見えるかというと……、本当は見えない。次に線というものを考えると、線と言うのは一本の線、1次元で表現する。線というのは長さはあるけどは幅がない。そんなのは見えません、幅がないと見えない。だけど線というのは長さはあるけど幅がない。ちょっと次元が増えると線から面になる、面というのは広がりはあるけど厚さがないという。これもちょっととらえどころがない。その上の次元が立体。2次元から3次元となる。金子大栄先生はこう言ってます。点というのは大きさがないと見えないんだけども、どうしたら点がわかるかといったら、直線と直線が交差する所ですといったら理解してくれるだろう。線と線の交差したところが点です。上の次元からみたら点が理解しやすくなります。では直線とは?というと、長さはあるけど幅がないといったら、これもちょっと見えないのです。しかし、面と面が交差したところです、というと理解できる。このように上の次元から下の次元がわかる。では面とはなんですかといったら、立体と立体が重なったところですとこういう。上の次元を持ってきて下の次元を説明すると理解しやすくなるのです。
私たちが仏の智慧の次元、私たちの分別を超えた次元ですから、仏さんの智慧(無量光)に照らされてみて初めて私というもののあり方が、善・悪、損・得、勝ち・負けで振り回されて、そして世の中を分かったような気になって傲慢になっている。仏の教えに照らされてみて、はじめて私たちは自分の愚かさ、迷いの姿を知らされるわけです。もし、仏の智慧との接点がなければ、卵の譬えの殻の中の発想を出ることができないのです。そしてこの世に自分の発想しかないと閉じこもるのです。そして「いくらお念仏が大事だと働きかけても、「そしたら、お念仏を言ったら病気がよくなるんですか」と聞いてくるわけです。自分の発想jの世界を出ようとしない。「お念仏で病気がよくなりますか」と言われると……、それはよくならないでしょう。しかし、生死 [2]の四苦を超えるという世界があるわけです。
生死を超える
生死を超えることが仏教の大きな目標です。この生死を超えるという事を、私たちがこの人間の生きざまを上の次元をもって理解しようとするならば……。
お話の前の方で三木清の言葉「幸福とは人格である」という言葉を紹介しました。私が大学生の頃に読書会でこの本を読んだ時、幸福ということと人格は関係ないと思っていたのです。田舎から出てきて。貧しい、つつましい学生生活をしていると、どんなにみんなからさげすまされるような人格であっても、その人は社会的地位があって、経済的に豊かで、家族がいて立派な家に住んで、うらやましいような華やかな生活を送っているのを見ると、「なんか、しあわせそうだなー」と見えるのです。その人の「人格」と「幸福」とは関係ないと思っていたのです。だからこの言葉が理解できませんでした。
しかし、仏法のお育てをずっといただいていくなかに見えてきたことは、私が人生を生きていくということを考えた時に、「しあわせ」という事への考え方が変わってきたように思います。
ふつうは、しあわせのプラス価値をあげてマイナス価値を下げたら、しあわせになれると私たちは世間のものさしで考えているわけです。この発想ではその人の人格と幸福は関係ないわけです。プラスをいっぱい持っている人がしあわせそうなわけです。世の中の多くの人たちは、仏教の話をする私に「先生そんなに仏教、仏教というけれど、仏教がなくてもしあわせそうな人たちはいっぱいおるじゃないですか」とこう言うわけです。
でも三木清が「幸福とは人格である」といった心をたずねてみると、仏教の智慧に関係しているのです。仏教の智慧とは「ものの背後に宿されている意味を感得する見方」という事ができます。この世俗の価値判断のものさしでは、表面的な価値(役に立つ、利用価値がある、迷惑をかける、など)を計算する見方です。仏の智慧の目で見ると私の存在は、見える命は見えないいのちによって支えられている、教えられている、願われているという、背後に宿されている世界に目が覚めるのです。私が今、ここに生きているという事は「あたりまえ」の事ではなく、多くの因や縁によって生かされているということです。(つづく) |