6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2559)

講題「人間として成長・成熟すること(7)」の講演録、加筆修正、(大谷派名古屋別院「人生講座」)前回の続き

仏の智慧で知らされる「存在の満足」

 人間社会でいうならば、快適な生活ができるためにはインフラ設備、下水道だ、道路だ、ゴミ収集など、生活で表に派手にでないけどなくてはならないものです。たとえば私たちがウォッシュレットのトイレって便利ねといっても、下水道がある程度完備してなければ(今は不十分でも簡易的にできるかもしれないけど)、いくら便利がよい設備があるとしても、基礎設備、インフラ設備ができてなければ働かない。それと同じように私たちに日常生活では表面的なことで多くは間に合うかもしないが、表面を支えている見えない領域が大切なことは多いのです。本当はこの私が多くの因や縁によって生かされているというこの、ここに私が存在するということが当たり前ではない。仏の目で見ると「存在している」というのが本当に貴重なことであり、一瞬一瞬が完結した在り方で存在しており、自体満足、満たされているという事です。そのことを「存在を満足」という世界に気付かせるものが宗教ですといって、数年前に亡くなられた今村仁司先生が書いていました。
 私たちが仏教の智慧で教えられる世界が「「存在の満足」です。そういう世界を私たちに目覚め、気付かせるのが仏教です。私たちは理知分別で自分の周りの表面的な条件というか、状況ばっかりを気にしているわけです。だから「幸福とは人格である」というのが全く理解できないのです。それが仏ん智慧で成熟という展開があると、見える命は多くの見えないいのちによってささえられている、教えられている、願われているということが感得できるようになってきたら、そこに自然と知足といって、「足るを知る」という世界に目覚め、「存在の満足」の世界に自然と導かれていくのです。そういうものを見せしめる仏さんの智慧をいただいて歩むところに、知足、存在の満足の世界があるということを仏さんは気付かせようとしているわけです。
往生浄土の歩みの中に満足の世界がある
 児玉暁洋先生が浄土論(願生偈)の説明の文章の中に、その一節「衆生所願楽、一切能満足」(「衆生の願楽する所、一切能(よく)を満足する」)は浄土の徳を表現していて、その心は「本物(仏の世界、浄土)を欲する意欲に生きるとき、本当の満足が与えられる」と説明されています。その仏さんの世界に行きついたのではなくて、往生浄土の歩み、本物を目指して、往生浄土の歩みをする歩みの途中に本当に満足の世界が恵まれてくるのですと。これはまさに浄土の徳というか仏さんの智慧の世界を示しているのです。
 浄土とは何かというと、私たちの仏教の先生は「仏さんのはたらきのはたらいている場」なのだと教えてくれました。仏さんが南無阿弥陀仏となって智慧といのちを届けたいと働いているはたらきを感ずる場、浄土を感得する者のは、私たちの願うところが一切を満足するという、本当にそこに「足るを知る」という世界に出させていただく。出遇うべきものに出遇ってよかったといって、いうならば、「人間に生まれてよかった。生きてきてよかった」といって人生を生ききっていけるのです。そういう智慧をいただく、そういう智慧を感得する場が御浄土なのです。その世界を生きる者は、自然と「存在の満足」という世界に導かれていくのです。
生きているのが嬉しかった
 「存在の満足」というのは、私たちは分かりにくいと思われるのですけども、キリスト教の人の言葉でそのことを知らされることがあります。星野富弘さんという方は20代で首の脊椎損傷を負い、車いすの生活をしてます。そして口に筆をくわえて植物の絵を書いてそこに言葉を添えています。その言葉の一つに
「いのちがいちばん大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。
いのちよりも大切なものがあると知った日、生きているのがうれしかった」
こういう詩を添えているのです。
 前の方は、命が一番大切だと思っていた頃は「生きる」のが苦しかった。これはまさに世俗の分別で健康が大事ですよ、病気がないということが大事ですよ、障害がないということが大事ですよと言っている時です。その時、回復不可能な障害をもって生きるのが苦しかった。しかしその卵の殻を超えた大きな世界、浄土真宗でいうならばお念仏の心に触れるということを通しながら、命よりも大切なものがあると知った日に「生きている」のがうれしかった。「生きる」から「生きている」、生きて「いる」のがうれしかった、ということが「存在の満足」ということを表現しているのです。私たちに、仏教(宗教)の救いという世界を教えてくれていると思っております。
人間、人生の全体像が見えてない
 こういうふうに仏さんの智慧の世界において初めて「あるがまま」の全体像が見える。この理性知性が言っていることが間違っているというわけでもないのですが、局所的なのです。医学の世界で言ったら、高齢者の方が食べれなくなってきた。老衰に近いような状態で食べれなくなってきた。老人ホームとか老健施設で食べることができないようになってきたというと、施設の人が、慣れてない方はこれは病気だと救急車で救急病院に連れて行く。そうすると、食べることができないとこれは死ぬかもしれない、ということでなんとか食べさせるようにしようとする。それができなければ点滴をして補う。点滴が長引くようであれば鼻から管を入れてちょっと栄養を補給しよう。本人がいやがって抜くようだったら胃に穴をあけて胃瘻(ろう)というように処置を進めていく、そして救命・延命をしようとします。これも私たちの医学医療の発想です、「食べなきゃ死ぬ」。
 その結果今日本全国に胃に穴をあけた寝たきりの人たちが多くなったわけです。20年前は私たち外科医が胃に穴をあける手術をしていたのですけども、もうこの10何年は内視鏡の専門医先生たちが胃カメラの感覚で胃に穴をあけることができるようになってきた。そういう技術が出てきた。そうすると内視鏡を専門とする医師が頼まれて胃瘻をつくる処置をすることになります。
 最近、ご存知のように胃瘻での経管栄養の患者さんが多くなった。延命はできるだろうが、しかし、患者の生命の質を考えると、いろんな問題がおこっているのです。そこで内視鏡の先生たちに、インターネットの中で内輪の情報交換の場があって、そこでアンケート調査がなされた。内視鏡の専門医は患者さんに胃瘻をつくっているのだけども、先生たち自身がそういう状況になったら、「自分に胃瘻をつくってほしいですか」、という質問をしたのです。そしたら自分につくってほしいという医師は一人もいなかった。「どうしてですか」と聞いたら、「死をみじめなものにしている」と言ったのです。その処置をすることによって量的延命はできたかもしれんけども、質が、生命の質、生活の質がみじめだとこういうわけです。
 そこに局所的に食べなきゃ死ぬ、食べなきゃ死ぬと局所的は間違いないのだけども、どうしても局所的なのです。仏さんの智慧の全体を見渡す視点からは、「食べても死にます」と。食べても死にますよと言う。食べなきゃ死ぬというときは食べさせることが一番の関心事だけども、食べても死ぬんですよということになってきたら食べさせること以上にほかの問題が出てくるわけです。私たちは局所的なところだけで間違いはないのだけども、大局の全体像が見えてない。だから私たちは生きるということに関しても大局が見えないのです。局所のところでとらわれ振り回されている。自分は正しく見ているつもりでこれしかないと思いこんで、医療・福祉の現場にこういう状態を作り出している。(つづく)

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