7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2559)

講題「人間として成長・成熟すること(8)」の講演録、加筆修正、(大谷派名古屋別院「人生講座」)前回の続き

人間・人生全体を見る智慧の目
 そういう私たちに仏さんは南無阿弥陀仏という念仏になって智慧といのちを届けたいという、目覚めた者の本来の願い(本願)として、「「南無阿弥陀仏」の声となって、凡愚の我々に呼びかけ、呼び覚まし、仏の世界に呼び戻そうとはたらいている。そしてお念仏の心をいただくものは、「足るを知る」という「存在の満足」に導かれる。三木清は仏の智慧を身に着けた人格者を「幸福とは人格である」という表現で示そうとされていると気づかされます。その後、「この幸福を手に入れたものは、この幸福を武器として戦うものは人生の途中にたおれても幸福で死んでいく」のだと書かれています。
 私たちの理性知性分別の思考では、「あの人は30歳で死んだ。あの人は50歳で死んだ。まだ未練があっただろう」とこういう思いを自分の身に合わせて考えるのです。
 仏教の智慧をいただく者はこの世での仕事が終わった時にちょうどいい時に仏のお迎えがきましたと。仏さんに「おまかせ、南無阿弥陀仏」となるのです。与えられた場、時代を、生かされて、育てられて頂いた役割を報恩行として粛々と務める。この世で仏さんからいただく仕事を、この世での私の使命として果たす。この世での命の終わる時、それは仏からの仕事の終わる時である。だから仏の智慧をいただいたものは戦いの途中にたおれても幸福に死んでいく、と書いてあります。三木清は、京大の西田哲学、西田幾多郎先生のお弟子さんだったそうです。生まれたところが兵庫県の非常に浄土真宗の盛んな地域で、そういう念仏の世界に接点があったようです。
 全体を大局的にみる智慧の目を持たれていたのだろうと思います。
 仏智をいただく歩みは螺旋(ラセン)状に深まる
 我々世間の知恵を生きる者は「健康で長生き」と量に対しての執われがあります。
 仏の智慧、この武器を手に入れた者は戦いの途中にたおれても幸福に死んでいくんだ、とこう書いてあります。私たちが人間として成長し成熟するということはそういう仏の智慧を頂く歩みであると思うのです。智慧の目で見ると、過去に生まれて、未来に死ぬという迷いの思考(分断生死)でなく、一瞬一瞬が生死一如、死に裏打ちされた生を生きている。「生」は有ること難しで、一瞬一種の「生」は完結されているのです。

 浄土真宗の念仏の行者は、一日一日を大切に念仏して取り組みます。念仏して人生を生きる者はこの世のご縁のある出来事はすべて、往生浄土の縁と受け取るのです。念仏の歩みは人間として成長というよりは成熟の方がふさわしいかなと私は思うのです。仏教の師がお話の中で、「歎異抄の9章というのが聞き始めたときも、かなり聞いてからも、そして深く聞いてからも、何度も立ち寄って味わうことのできる所です」と、こうおっしゃっていました。螺旋的に深まっていくというか、螺旋的に深くいただけるようになるのだと。
 歎異抄の9章は唯円が親鸞聖人に「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、また浄土へまいりたきこころもなくてそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらんと、もうしいれてそうらえしかば、親鸞も不審ありつるに、唯円房、同じ心にてありけり……」とこう続く文章です。唯円さんが「お念仏するけども、浄土に行きたいとか喜びがありません」、これはどうしたことでしょうかと親鸞聖人に聞いたら、先生がわしもおんなじじゃ、といったんですよ。私は初心者で聞いたら、お弟子さんがお念仏をいただいても喜べない、お浄土に行きたくない、といったら、先生も同じように、喜びがない、行きたくない、と言った。この仏教はちょっと止めとこうかとなるのが普通です。
 だけども、長年お念仏の心を聴かせていただくと親鸞聖人が「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば……」と、本当に仏さんがおっしゃるとおりだから、いよいよ私たちは仏をたのもしく思い、お念仏して生きていく世界がいただけるのですよ、と親鸞聖人が言われるわけです。だから本当にそこに「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば、かくのごときののわれらがためなりけり……」とこう言って、その救われるはずのない私がお念仏によって救われるんだという、どんでん返しみたいな世界が展開するのです。
 そのお念仏の心を通して、私たちは仏のはたらきをいただいていくのですよ。救われないという確信が救われるという確信になるのだといって親鸞聖人がおっしゃったわけです。やっぱりそこに初心者の時も、かなり聞いた時も、長年聞いても、やっぱり私たちはその「念仏申しそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうことまた急ぎ浄土へまいりたきこころもなくてそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらんもうしいれてそうらえしかば、……」というその疑問をご縁として私たちは繰り返し、自分のお念仏のいただきを確認させていただくのではないかと思っています。
 「仏さんはいらっしゃいますか」という問いを持って生きる
 「仏さんはいらっしゃいますか」ということ。私たちがお念仏の心に触れるということを通して私の姿がはっきりする。どうしても私たちは仏教の智慧を向こう側に対象的に見て、智慧が分かったら仏教が分かるのではないか。仏教の智慧をもう少し分かったらいいなと思う人がたくさんいらっしゃいますよ。でも仏さんの智慧がはっきりするということは何が分かるかといったら、仏さんの智慧に照らされた「私の相(すがた)」がはっきりがするのです。仏の方がはっきりするのではなくて、仏の智慧に照らされた私の相がはっきりするわけです。

 私たちは日常生活の中でいつも仏さんに照らされて生活をしているかというと、ほとんど忘れていることが多いわけです。私は仏教の師から学校の講義を受けるように1時間お話を聞いて、30分質疑応答ということを基本にしていました。大学の講義形式みたいなやり方で私はお育てをいただいてきたわけです。質疑応答というのを非常に大事にされたのです。普通、お寺に行ってお話をした後、質疑応答の時間はあまりありません。あってもなかなか質問が出ません。私自身もみんなの前で質問をする方ではありませんでしたけど……。「質問は有りませんか」と急に言ってもほとんど質問が出ないのです。
 私たちの先生は質問が出ないというのは理由があるのだと。それは常日頃仏教のことを考えていないということだ、と。常日頃は世間ごとばかり考えて生活しているということです。では。仏のことを考えるとは……。何を考えるかといったら、お寺でお話を聞いて日常生活に戻って、その中で、「仏法はあんなこと言っていたけれども、私の日常生活と違うなあ……とか。あの話が受取れない。なんであんなことを言うのかな……。仏教で聞いた内容と私の日常生活での相違、教えと現実の違いなどをいつも考がえていたら、必ずそこに質問がでてくるのだと、言われていました。
 「考える」ことが大事である
 何を言っているかというと、「考える」ということが大事だというのです。仏法の話を聞いていくと六道輪廻という話があります。六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天と、これは私たちの心の状態は示している。我々の心は日常生活でいつも六道を経めぐっている。それを六道輪廻と言っています。六道の迷いを超えることが仏教の大きな目的で、解脱とも言います。仏教の話を聞いてみると私たちはこの六道を超えるときに、どこから超えるのか、ということ、そんなこと考えてもしょうがないかもしれませんが、人(人間)のところから超えていくのです。天(国)とか修羅、地獄、餓鬼、畜生じゃなく、人間のところから超えていくのです。そうすると人間とはなにかといったら「考える」存在ということがあるのだと。

 私たちが常、日頃「考える」ということで、「何を考えるか」と言ったら、お話で聞いたことと日常生活での差があるということを考えていくのだと。そしてどうしてお話の内容がうなづけないのか……、そこで湧く疑問、日常生活で私はこうありますけども、先生の話はこんなになっています。この差はどうしてなのですか、こういう質問がいい質問なのです。
 私たちは「仏様はいらっしゃいますか」とか、それを進めて「仏さんはどこにいらっしゃいますか」という問い、「問いを持つことが救いです」とも教えていただいています。
 問いを持つことが救いです、ということはこれは「考えなさい」ということを教えてくれているのだなと思います、考えなさいと。(つづく)

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.