8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2559)
講題「人間として成長・成熟すること(9)」の講演録、加筆修正、(大谷派名古屋別院「人生講座」)前回の続き
仏はどこにいらっしゃいますか?
日常生活の中で私は仏さんをどう感じているか、と問われるならば、今は「仏さんはいらっしゃいますか」ということについて、私の愚かさを、私の迷いの姿を知らせてくれる働きにおいて仏さんはいらっしゃいます、と答えます。私に仏様は確実にはたらいておられる。そして救われるはずのない私に「念仏するものを浄土に迎えとる」という本願が、よき師、よき友を通して私たちに届けられている。
そのお念仏は歎異抄の第1章で「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏もうさんとおもいたつこころのおったとき、すなわち摂取不捨の利益にあづけしめたもうなり」という。念仏申さんと思いたつ心がおこったとき、妙好人の才市が自問自答して「浄土はどこか、ここが浄土の南無阿弥陀仏」と言って、お念仏がでるところが浄土だと、こう言われています。
浄土というのも、その受け取りに西本願寺と東本願寺でいただき方が、ちょっとニュアンスがちがうところがあります。妙好人の才市の「浄土はどこか、ここが浄土の南無阿弥陀仏」といわれましたが、西本願寺の先生に「あれは異安心なのですね」とこう聞いたら、いやあれは門徒さんが味わいとして言うのには問題はないのだけれど、本山の教学の中心にいる人が言うと問題だ……。非常に微妙なところがあるのです。
この「仏さんがいらっしゃいます」ということは私の日常生活においてどういうことか、ということを私たちは考えながら生きていくことが大事です。次に仏さんは「どこにいらっしゃいますか」ということが問いとしてあるのです。「仏さんはどこにいらっしゃいますか?」。
物事を表す時、体・相・用であらわ有ことであります。仏をこれで示すと、「体」、本体は法性法身です。それは色がない、形がない。言葉で表現することもできない。いわば次元を超えた仏の世界のものです。その相、私たちが認識できる具体的なすがたは「南無阿弥陀仏」です。用、はたらきは光明無量、寿命無量、智慧と慈悲のはたらきです。私が口で「南無阿弥陀仏」と称える時、それは阿弥陀仏が私に差し向けられている南無阿弥陀仏と味わえるのです。私が称え、私に聞こえる声の南無阿弥陀仏が私を救おうとはたらいている相(すがた)です。南無阿弥陀仏が心の上にはたらくとき信心と言い、口に出てはたらいてくださっているのが称名です。称名即名号、信心即名号、称名即信心という言葉もあります。
ある学生さんは、仏さんは南無阿弥陀仏じゃありませんかと答えた人がいました。こう言う人はある程度仏教を受取れている学生だろうと思います。その南無阿弥陀仏というのがはたらきとして私を照らし育(照育)て、照らし破る、自我意識の殻を破る。阿弥陀仏の本願、第18願では、「至心 信楽 欲生」として、仏のはたらきとして示されます。そこの受け取りを大江憲成先生(九州大谷短大学長、大谷派観定寺(大分県中津市)住職)は、よびかけ、よび覚まし、よび戻す、というような表現をされています。そういうはたらきを私たちは仏さんのはたらきとして感得するのです。
次に「仏さんはどこにいらっしゃいますか?」とこう問うとき、ある院生は、私の
体の中に、おなかの中に仏さんはいらっしゃると思いますとこう言われる人もおりました。私の仏教の師は「仏さんは足の裏におります」と言われていました。足の裏におるということは仏を仏と思わず、私は仏を踏みにじって生活しております、南無阿弥陀仏、という心なのでしょう。私たちは仏教を利用して私の心の安定が欲しい。私の救いが欲しい、といって仏を利用して、モノや道具みたいに利用して、私の満足、私の救い、私の信心・悟りが欲しいといって、仏さんを大事にしているのではなくて、使い捨てするように踏みにじって生活をしているのです、と先生はおっしゃっておりました。それが頷けるか、頷けないかは私たち一人一人の仏教の受け取りが問われているということです。
人生のいろいろな出来事を人間として成熟するご縁として生きる
一歩前を歩く先生、よき師よき友がそういうお念仏に出会った感動を、お念仏を褒(ほ)め称(たた)える、讃嘆として法話の中でいろんな表現をしてくれています。その讃嘆の声を聴かせていただいて、そして私たちもまた「お念仏して生きていこう」という勇気を頂いて、お念仏の生活させていただくのだなあ……、と思うことなのです。
私の仏教の師がこういう言葉を残してくれています、「人生を結論とせず、人生に結論を求めず、人生を往生浄土の縁として生きる。これを浄土真宗と言う」。 どうしても私たちの理性知性を考えの中心におく発想では、あの人は成功したとか、失敗したとか。運が良いとか悪いとか、あんなに時めいていたのに最後はあんな死に方をしたのか、とか言って、ついつい「結論づける」ことが多いわけです。自分自身の人生を結論づけることはないのだ。また他人の人生をいろいろ結論づけることはないのだと、教えてくれています。
この人生のいろんな出来事が私には往生浄土の縁としていただける、人間として成熟するご縁になるのです。私たちにとって日々の世間生活は人間として成長し、成熟するご縁としての人生の出来事なのです。いろんなことを経験しながら、そのことを通して、この現実は私に何を教えようとして起こったのだろうか。この現実は私に何を教えようとしてあるのだろうかと受け止めるという発想を仏教の智慧は教えてくれるのです。そういう発想の方向性で、現実をお念仏して受け取る。
お念仏することのご利益として、転悪成善のはたらきをがあります、念仏して人生を歩ゆむ時、必ず「人間に生まれてよかった。生きてきてよかった」ということのできる人生に導かれていくでしょう。「生きてきてよかった」とは現在完了の表現で、その思いが継続するのです。「いつまで?」、「死ぬまでです」。
死んでからどうなるか分かりませんけど、「お念仏するものを浄土に迎えとる」と仏が誓っていますから、間違いないのです。私の理知分別は仏の無量光に照らされると「愚か」で「迷い」を繰り返していることを露呈されます。愚かな私の理知分別が考えるのではなく、私の凡愚さをはっきりと目覚めさせる仏の智慧が、仏さんが「「念仏する者を浄土に迎えとる」と誓われているのです。私以上に私のことをご存じ、私以上に私のことを大事にしようと愛してくれている仏さん。その仏さんがよいようにしてくれる、仏にお任せとなるのです。
宮城(しずか)先生は、往生浄土という言葉を純粋未来という言い方をされています。純粋未来というのは、私たちの普通使う未来というのは必ず行く未来なのだけど、純粋未来というのはどこまでも向こうからこっちに来る未来なのだと。今ここで受け取る世界、どこまでも向こうから来る浄土なのだと、こういう言い方をされています。この世で生きているうちに、必ず仏に成る位、現生正定聚に定まるのです。浄土に往生する者は必ず成仏するのです。弥陀の浄土はそういう場なのです。
仏教は「今」「ここ」ということを一番大事にするわけですから、「今」「ここ」で照らされることの深まりから見えてくる、過去であり未来であって、「今」「ここ」ということよりほかに私の取り組むべき現実はないのです。念仏して現実を引き受けて取り組む。
大森忍というお東の僧侶が島根県にいらっしゃいました。大森先生がよく「仏教の分かる早道を教えようか。それは心の中に起こる程のことを見つめて念仏申す」「しかし、世間の人はなかなか本気にしてくれない」と言われていました。念仏して歩む中に、信国淳先生(元大谷専修学院院長)の言われる「としを取ることは楽しいことですね、今まで見えなかった世界が見えるようになるのです」という世界が展開すると思います。それが人間としての成熟ということではないかと思わしてもらっています。仏教の師が「お念仏をしっかりする。お念仏の生活をさせていただくというのが大事なんだ」ということを言われていたことを思い出します。(終了) |