9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2559)

「絶縁社会、―分別知に潜む孤独―」 絶縁社会 (1)南御堂 第631号(平成27年1月1日p5)

 縁ということを考える時、若いころから親類づきあいにしても世間的な付き合いにして、「煩わしい」という思いを基本に考えて、対応していたように思います。しかし、考えてみると、自分に利用できる関係は維持しようと考えていたことも事実です。そこには自分にとって都合が良いか、悪いかの計算が頭の中では働いていました。
 総合的に考えると生きていくためには、利用できるものは何でも利用して自分の思いを実現するとか、人生を楽しもう、という心根がちゃんと働いていたのです。そして対外的には世間的に「良い人間」だと思われたいがために表面的には良い人間を演じようとしていました。心根では人に見せたくないお粗末な心根を気付かされないように、建前と本音をうまいこと使い分けて、世の中を小賢しく生き抜けようとしていたのでした。
 学生時代、学園紛争の真っただ中で。「あなたはどっちの方向を選ぶのだ」と迫られる場面があり、本音と建前の間に身体全体で戸惑ったことを鮮明に覚えています。そして、私の内面では悶々とした葛藤が起こり、結論は人がどう言おうと(人の評判を差し置いて)本音の判断を選びました。
 自我意識が出てから学校教育の中で育てられた考え方の基本は、理知分別を基本にして、私がおり、いろいろなものや人が別(対象化、分別化、分断化、実体化)に存在していると考えて、私にとって都合の良い物(人)を集めたり付き合ったりして、自分の思いを実現する、幸福な人生を目指して生きるのが人生だと思っていました、それ以外に考えられないという確信みたいな思いをもっていました。
 大学5年生の時、仏教の教えに出遇うご縁に恵まれて、仏教の智慧に育てられる中で、考え方の浅い、深いなど知らされるようになりました。中でも「縁起の法」を教えられた時、改めて関係性の大事さを知らされました(しかし、それは頭の中で理解しただけのことであったことに気付くのは20年以上経過してからのことでした)。
 戦後の教育を受けて育った世代は煩わしいことや関係を避けて、核家族化の方向を進んできました。各家族がほどほどに豊かになり、隣近所で物事の貸し借りもせずに生活できるようになっています。そして都会も田舎も見事に核家族化して、田舎ですら、「隣は何をする人ぞ」というような関係性になって、行政的な隣保班の中で市報などを順番で配布しあう人間関係に留まっているのが私の住む田舎の現状です。
 児玉暁洋師が、煩わしい人間関係、社会関係の外の束縛から解放されていけばきっと自由な豊かな生活ができるとその方向に進んで、その結果、気付かされたことは「心の中の空白」であったという趣旨のことを書かれていました。
 自分の都合で良い、悪いを考えて分別していくことは世間の常識と思っていたのですが、良い悪いは縁次第で変わるということまで深く見抜いていませんでした。そして相手を対象化して、私にとって都合が良いか悪いかを考える発想は、相手を物化、手段化、道具化する愚に陥り、結果として自分も物化することになっていたのです。気付いてみれば、それが地獄・餓鬼・畜生の三悪道の、迷いに堕して苦の連鎖をきたす方向でした。
 仏教のお育てをいただいて約20年ぐらい経過していた時、国立病院の外科の医長から町立病院(規模は町立の方が大きかった)の外科部長へ転勤の話が出てきた時、転勤は私にとって都合が良いか、悪いか、損か得か、勝ち負けで悩みながら仏教の師に相談して転勤の最後の決断をしました。そして転勤後、仏教の師より手紙をいただいた中に「あなたがしかるべき場で、しかるべき役を演ずるということは、今までお育ていただいたことに対する報恩行ですよ」の文があったのです。
 「参った。人間になれてなかった、餓鬼畜生であった」との思いがはっきりと受け取れたのです。

絶縁社会(2)南御堂 第631号(平成27年 2月1日p5)

 普通の我々の思考は、この世に生まれて自我意識が発達して気付いてみれば、私が存在して、親が、兄弟が、隣近所の人が存在していた。すでに存在していた世界に私がなぜか知らないが生まれた。そこには家、家族、地面、空、山、川、などがバラバラにあるという認識であります。
 その認識の元を訪ねると幼いころから言葉を覚えて、その言葉で物事を理解し考えるようになりました。しかし、それは存在全体の中から一部分を切り取って名づけて言葉の概念を作り上げてきたのです。仏の智慧(仏智)に照らされて、我々の言葉の使い方は知的理解であって、物事を全体的に正確に把握してないことを知らされるでしょう。
 仏教に出遇い、聞法の歩みで「縁起の法」を知らされました。宇宙中の物事は無関係なものはない。すべて存在は関係性の中に存在するという縁起の法に沿ってあると知るようになりました。それは生物学や医学でも生命の現象を考えるとき、その関係性は理論的に整合性の合うことに仏の洞察のすごさにお驚きます。
 農民作家として知られる山下惣一氏は同朋新聞の記事で「『土』というのは、いのちの源です。『人間は土を食べて生きている』という言葉は、本当だと思っているんですが、私たちの口に入る時は、お米、ミカン、レタスなどと形を変えていますが、考えてみればこれは姿を変えた『土』なんですよね。土があり、土の中のさまざまな微生物の活動によって生み出されたいのちです。(同朋新聞、2014年11月1日発行)」と言われていて改めて、宇宙中の事物、現象の一如なることを思い知らされることです。
 我々は今までの日常生活の中で、「私」「それ」「あなた」などが別々に独立して存在していると見ながらも、血縁、地縁と親戚、近所の人、同業者で助け合って生きてきました。昭和40年以降の経済成長の中で労働収入を得るようになり、物の豊かさが現実のものになって、助け合わなくても個々の家庭で生活が出来るようになりました。しかし、時間の自由度は減少し、血縁、地縁の濃度は薄くなってきました。人間関係の煩わしを避ける結果、核家族化して気づいてみれば絶縁社会といわれる現象をきたしているように思われます。(続く)

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