10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2559)

絶縁社会(2)南御堂 第631号(平成27年 2月1日p5)前回よりの続き

 仏智から見れば、我々の認識・思考の基礎の理知分別の「分別知」は、その思考方法に、縁を絶つ方向性を秘めていたということではないでしょうか。いかに間柄の関係性、ご縁が大事だと言っても、人や物を対象化(私と切り離して)して考えていく限り、本音と建て前を使い分けながら生きていくしかないようになっています。我々の日常生活の分別知で物を見、考えて、それを常識として生きている思考は仏智によれば我執が作り出した虚妄分別であり、絶縁社会を避けられないと見抜かれているのです。
 本来は一如なる中の存在である事物を理知分別の言葉で切り離し、対象化するところに縁を無視して孤立していく絶縁への目を孕(はら)んでいるのです。そんな我々の在り方を仏は大悲されて、本願、南無阿弥陀仏、「汝、小さな殻(分別性)を出て、大きな世界(仏の智慧)を生きよ」と名号となって気づかせようと働いているのです。そこには一切のものは根源的にはつながり合っていてひとつのものであるという見方であり、本来的には全てのものは相を離れた無相のものであるというのが仏智で見た真実の相であるということです。
 分別性のゆえに潜む無縁(血縁、地縁などの世間的な関係性が無いという意味)、絶縁社会を克服する道としての仏智の「縁起の法」による「法縁」を大事して、法蔵菩薩のように頭を低くして、全てのものから学ぶという姿勢を生きる存在たらしめられるのが念仏する者の道でしょう。念仏の智慧によって、私が真の自己に成りきる時(道元禅師の「万法に証せらるる」)、逆にすべてが自己となり「万物と我と一体、宇宙と我と不二」という世界を刹那的に感得しながら、私の現実を照らされ(懺悔と感謝)ながら願い(願生浄土)をもって取り組む有り方に導かれるのでしょう。
 そこには末法であり絶縁社会であっても間柄を持つ人間性回復の道を歩みたいとの願いを生きる念仏者の生き方があるのではないでしょうか。

絶縁社会(3)南御堂 第631号(平成27年、3月1日p5)

 「生きる力」(東本願寺出版、梶原敬一著)の中で、仏の六神通の中の1つに「他心智通」が語られている。仏は他の人の心を知りつくす不思議な力を持っている。我々は聞法、仏教の学びの中で、仏は我々の心の状態、深層意識のすべてを知り透していると感じるようになります。そのために私は仏の前では隠し事ができない、見破られている。それにも関わらず仏に背を向ける私をも大事にして、救う働きをしてくれている事に驚くのです。
 そのことを曽我量深師は 「如来に信じられ 如来に敬せられ 如来に愛せられ かくて我々は  如来を信ずることを得る」と言われたとお聞きしています。
 私が仏から知り尽くされていることを知らされた時、私と仏の通じた関係に比べると、長年生活を共にしている妻や子供との関係はどうだろうかと思われた時、「生きる力」の本を読みながら身ぶるいをするような寂しさと孤独感を感じて念仏させられました。永年生活を共にし、共有の認識を多く持っている家族であっても、仏との関係に比べると通じ合えてない現実に驚かされます。通じ合えてないから、お互いが、まあまあの関係で居れるのかもしれません。南無阿弥陀仏。
 また某新聞記事にタレントの離婚の記事に触れて、「……が離婚した。『別れた理由』ならだいたい察しがつく。芸能人に限らず、『理由』の大半は異性問題、つまり浮気、不倫、それとも性格の不一致と相場が決まっている。本紙にも随想を連載しているイラストレーターのAさんがうまいことをいっている。「私たち夫婦がこれまで別れなかった最大の理由は本質的な話をしてこなかったからだ」。至言である。夫婦愛とは何か、家庭はいかにあるべきか、などヤヤコシイことを話し合ったら、たちまち考え方、性格の違いが露呈して、せんでもいいケンカになり、『じゃあ、別れましょう』ということになる。ウソだと思うなら、今晩やってご覧なさい。……」という内容に一瞬言葉を失った。
 分別を拠り所として生きる我々は周囲の存在を対象化して3人称的に距離をおいて見ることを免れない。世間的な長所・短所などを考えていくと、ついつい相手を物や道具的に見る傾向を避けられません。相手を物として見ると私も物になってしまい、冷たい血の通わない関係におちいってしまう。貧しい時代は血縁、地縁でお互い助け合わずに生活できなかったが、豊かになっていく過程で、鬱陶(うっとお)しいと思っていた関係を疎遠にしようとして、分別性のゆえに行き着く絶縁社会が露呈したということであったのです。
 絶縁社会において、人間性をいかに回復させることができるか。
 南無阿弥陀仏になった仏は救いを実現せんと働いておられる。時代社会を超えて念仏、「汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ」の呼びかけの中に人間性回復の道があるのです。人をも物扱いしそうな私に「友よ」の呼びかけにびっくりするのです。よき師・友は、法蔵菩薩のように全存在をかけて「私」に働きかけてくれていたのです。よき師の背後の仏の働きを感得する者は、私も浄土を生きていきたいと願心をもって生きる存在たらしめられるのです。
 人間性を回復する道は具体的にはどう展開するか。
 我々は「今、ここ」という時と場をご縁があって共有しているのです。何十億人の人の中で、私の周囲に種々の役割を演じながら関係性を生きている。我々は家族、隣人、同僚となる関係性を持っているのです。よっぽどの宿縁というご縁を持っているのです。「友よ、ご縁を大切にしよう」で生きていきたいものです。
 仏教の智慧は「物の背後に宿されている意味を感得する」といわれます。「私の周囲の事象は私に何を教えようとしてあるのか」、「物の言う声を聞く」という姿勢です。それは「われ以外は皆師」となり、姿、形を種々に変えて私を教え、育て、導こうとする「菩薩」としての存在です。私の都合で見ると好き・嫌い、敵・味方となるかも知れません。しかし、その人もその言動をせしめる背後の深い因縁があるのです。宿業を抱えた存在であり、私にとって良い・悪いの手本・見本となって私とのご縁を生きているのです。念仏して受け取っていきましょう。

(吉野 弘:続・吉野弘詩集.現代詩文庫119,思潮社,1994.)より
「生命は 自分自身だけでは完結できないように つくられているらしい
花も めしべとおしべが揃っているだけでは 不充分で
虫や風が訪れて めしべとおしべを仲立ちする
生命は その中に欠如を抱き それを他者から満たしてもらうのだ
世界は多分 他者の総和 しかし 互いに 欠如を満たすなどとは
知りもせず 知らされもせず. ばらまかれている者同士
無関心でいられる間柄 ときに うとましく思うことさえも許されている間柄
そのように 世界がゆるやかに構成されているのは なぜ?
花が咲いている すぐ近くまで 虻(あぶ)の姿をした他者が 光をまとって飛んできている
私も あるとき 誰かのための虻だったろう
あなたも あるとき  私のための風だったかもしれない」

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