11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2559)
生老病死の四苦の課題を今まで狭く考えていて、大きな課題に気付かされたので紹介します。
我々は自分や自分の周りに価値あるものを集めていけば、きっと満足を得る人生を歩むことが出来ると思っています。日本経済新聞の「私の履歴書」は毎月、1カ月間で一人の人生の歩みを自叙伝のように掲載されています。各界の功が成った人が選ばれているようです。読みながら善悪は別にしてその人の歩み(順境、逆境を含んで)を読みながら「すごい人」という印象を受けます。表面的なところだけを見ると、世間的には成功した人と言えるでしょうが。
私が若かった大学生の頃、医師になったら、専門医になったら、院長になったら、等々を見上げるように見て、地位が上がって行ったら、きっと満ち足りた思いで人生を生きることが出来るのだろう、と単純に想像していました。
経験を重ねるにしたがって、社会的地位は上がっていきましたが、地位に応じた責任をしっかりと果たさなければという責任感によって努力する一方で、その地位が自分の実力にふさわしくないのではという後ろめたさの思いが伴っていたことが思い出されます。師よりいただいた「しかるべき場所で、しかるべき役割を演ずるということは、今までお育て頂いたことへの報恩行ですよ」の言葉や、清沢満之の「天命に安んじて人事を尽くす」の言葉と一緒に仕事への取り組みに勇気をいただいたように思えて、細々ではあるが仏教の教えを憶念しながら、しっかりと取り組むように心がけてきました(世間的に結果が良かったか、悪かったかは不明)。
複数の人を引っ張る立場の責任者をわずかばかり経験したためにか、世間的に責任者として仕事をしている人や、皆さんのお世話を犠牲的精神でしている人を傍観者的に批判することはしないようにしています。
我々が世間的に目指している「幸福」はマイホームを持って、家族の和があって、経済的、社会的に安定した生活です。我々の時代には、「勉強して、よい大学に入って、よい会社に就職をして、よい結婚をして、高い地位について、……」、規模の違いはあっても一国一城の王様を目指しているようなものであったと言えます。いや、現在でも大きな違いはないと思われます。
大統領、首相、国王は一見華々しい地位ですが、60数年の人生経験を通して見る時、「ご苦労をされていることだろう」と思われます。社会的に責任のある役職に着くと、いろいろな問題に取り組み解決の方法を考えて示していかなければなりません。それは私的な家庭においても同じです、現前の事実に対して、逃げも隠れもできません。生活をしていくうえで必ず、決断をしなければならない種々の問題が起こってきます。一つの問題の解決がついたら、すぐ次の課題が出てくる。時に同時に複数の解決の難しい問題が出てきます。テレビや新聞を見ると、日本や世界で次から次へと絶えることなく問題が出てくる現実に、テレビのニュースを見るのが嫌になります。人生は悩みの種でいっぱいです。私が今まで歩んできた人生をもう一度歩みなさいと言われても…、仏教との出遇いはよかったが…、「もう結構です」と言いたい気持ちにもなります。
仏説無量寿経(大経)には法蔵比丘(菩薩)が、ある国の国王の地位についていた時、世自在王仏の説法に出会われて、その後の物語の展開が説かれています。世自在王仏の説法に触れて、みんながうらやましく思うであろう世間的な幸福(家族、地位やお金など)をすべて捨てて、出家して悟りへの修行を始めたのです。その動機と思われるものは、「もろもろの衆生の生死勤苦(ごんく)の本(もと)を抜きたい」と発願しての出家です。今までは四門出游のたとえで示される、生老病死の四苦の課題の解決を主に願って出家をした、と受け取っていました。しかし、ある人の本に、医学的な老病死ばかりでなく、もっと大きく考えて「生きることの苦しみ」が課題であったのだと教えられました。
国王という立場で世間的に政治的判断を迫られる課題に次から次にと対応しながらも、その繰り返しに、対応のきりのないことに、うすうす気づいてきて、そういう問題の原因の本の本を解決しなければ、同じことの繰り返しで……、きりのないことを見抜くようになり、世自在王仏の説法で、その根本解決の方向性を示唆されたのでしょう。それで「もろもろの衆生の生死勤苦の本を抜きたい」と発願して世自在王仏の指導を受けるようになっていかれたと思われるのです。
医療の世界で考えてみると、病気になると現在でも一番頼りになるのは体力、自然の治癒力です。その体力の源は食事です。ですから「食べなきゃ死ぬ」と言って食べてもらう工夫をします。どうしても食べれないときは、それを補う種々の治療方法を実施していきます。
しかし、考えてみると食べることが出来て、体力、治癒力が回復すれば「死なないのか」という問題です。患者の人生を大局的に俯瞰すると、「食べることが出来ていても死は必ず訪れます」ということです。「食べないと死ぬ」、「病気の治療をしなければ死ぬ」ということは局所的には正しいでしょうが、人生の全体を大きな視点で考え時、一時的には正しいことを言っているが、表面的であり全体が見えてないことを知らされます。
食べていても、治療をしても、必ず将来は死に直面します。すると、「もろもろの衆生の生死勤苦の本を抜く」ということは、本当の救いにつながることを思考したということでしょう。しかし、世間的には「仏教の教え」というと特殊な領域と思われがちで、現在の日本の社会は世俗的に唯物論的科学的思考が席巻していて、生きることの課題の解決のために仏教を取り入れることには大きな壁があります(仏教を手段、方法、道具の位置づけで扱うこと自体が顛倒しているのですが…)。
刑務所での教誨の仕事、自死問題での対応、などでは仏教の関わりが必須であるという認識が、先輩宗教者の取り組みのおかげで出て来ていると思われます。しかし、医療の世界では「この世」だけのこと(死んでしまえばお終い、命あっての物種)という受け取りを超えることは難しい現実があります。
人間とは?、人生とは?、という領域を考える時、哲学、宗教的な視点がなければ、人間の生きること、生老病死の四苦の問題の本当の解決はできないと思われます。それなのに普通の思考(計算的思考、カラクリを解明する思考)での局所的対応は、結果として、同じことの繰り返しか、思考の破たんか、問題の先送りにしかならないのは自明のことなのですが……。この世だけの問題として取り組むのに熱心で、三世(現在、過去、未来)の救いを教え、「もろもろの衆生の生死勤苦の本を抜く」という仏教の世界観が認知されるということは不可能な時代性に直面しているのでしょうか。(末法ということか??) |