12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2559)
高齢の認知症の患者が外出して、帰り道が分からず、警察に保護されて家族に連絡があることがあります。田舎だと分かりやすいが都会では身元を知る手掛かりがないと行方不明者として保護されたままになることがあると報道されていました。病棟に入院していて、トイレや食堂に行って、その後、自分の部屋が分からなくなる認知症の患者もいます。
オリエンテーションとは辞書には次のように説明されています。@方位。方位測定。指標。A?自己と新しい環境および過去との関係を正しく認識する精神作用。見当識。所在識。自己の位置づけ。?新しい環境への適応・順応。B学校・会社などの組織で,新入者がそこでの生活・活動に早く適応できるようにはからうこと。
オリエンテーションが分からなくなること(全体の地理感覚、そして自分の位置感覚があやふやになる)は認知症の一つの症状であります。高齢者の自動車道での逆走することのニュースを聞いたことがあるでしょう、私も他人事でない年齢になっています。次のような小話があります。
逆走車があることを情報板やハイウェイラジオで直ちにお知らせしているそうです。
ある高齢者の夫婦の会話
(逆走)ある高齢者夫婦が自動車道を運転していた。その時、ラジオで逆走車の情報が聞こえてきた。同乗の妻が心配そうな声で
妻:「あなた、気をつけて。ルート280号線を逆走している車がいるって言っているよ」
夫:「ああ、知ってるわい。さっきその車と出会ったよ。危ないなあ、気を付けなければ」
夫、妻が同時に「あれ!、一台だけじゃないんようだ。何台もの車が逆走してるよ」
毎月頂いている仏教の通信に次のような話が掲載されていました(内容は一部田畑が変更)。
一方通行の道で、間違って進入(迷入)した(本人は分からない)。自分が迷入して違反をしているとは思わないから、車が一台向かってきた。
それを見て「狭い道を、危ないなあ」と独り言。又進むと大きなトラックがやってきた。
そしてトラックの運転手が大きな声で怒鳴った「バカヤロー、何やっているんだ。道路標識を見ろ!」。
運転手が道路標識を見たら『一方通行』だった。トラックに怒鳴られて、はじめて自分の走行方向の間違いに気づいた。
私を叱り飛ばして、間違いに気づかしてくれる人が善知識なのです。
我々は自分で自分の理知分別が間違っているとはなかなか思いません。我々の普段の思考を考えると、「人生における認知症」ではないでしょうか。我々は人生の目標を「幸せ」と思っています。幸せを目指して世間的なモノサシで価値判断して、プラス価値をできるだけ集めて、マイナス価値はできるだけ少なくしていこうとしています。若いうちは“それしかない”(絶対化という)と思考方法になぜか自信を持っているようです。
しかし、人生を長く生きてきて、思われることは、いかにプラス価値を集めて、都合の悪いものを先送りして生きて行こうとしても、避けられない「老・病・死」に直面するようになります。老病死は(マイナス)の(マイナス)の(マイナス)ですから、「あってはならないことだ」と戸惑うのです。しかし、必ず老病死につかまってしまうでしょう。
「幸せ」を目指して「不幸」になるとは、科学の世界で有名なパスカル(クリスチャン)はパンセの著作の中で、我々は「不幸」の立て看板の前に「幸せ」という看板を掛けて「不幸」を見えなくして、不幸の完成を目指して突っ走ている、という趣旨のことを書いています。
人間の生き方、人生の理解において、我々の普通の発想は、「迷走」、「逆走」を思わせられます。これはよく考えたら認知症の症状に似ていないでしょうか。仏教の智慧は我々が病人、「人生における認知症」であることを知らせるはたらきかも知れません。
我々の拠りどころの理知分別は局所的なプラス、マイナスの価値判断に執われて、大局的な大きな視点での人生を見通す視点が抜けているように思われます。
曇鸞大師の書かれた『浄土論註』に、「惠蛄(ケイコ)春秋を識(し)らず。伊虫あに朱陽(しゅよう)の節を知らんや」という有名な言葉があります。「惠蛄」というのは、「ツクツクホウシ」という蝉のことです。「朱陽」とは、夏ということです。「蝉は夏生れて夏死ぬのです。春や秋というものを経験しない。だからツクツクホウシは夏生れて夏死ぬのですから、夏の専門家だから夏のことならよく知っているかというと、そうではない。夏も知らないのだ。」ということです。
夏しか知らない者が、今が夏だとどうしてわかるか。つまり、それは夏を知らないのだというわけです。私たちの常識からすれば、「蝉は夏を知っている。」と思うが、実は今が夏だということを知っているのは、春や秋を知っている者なのです。春や秋を知らない者が、今が夏と呼ぶ季節だということを知るはずがないのです。夏しか知らないのですから。それが全部なのですから。今が夏だということを私たちが知っているのは、私たちが春夏秋冬を経験しているからでしょう。つまり、「夏を知る」という。これは、「分限の自覚」であります。「私は夏しか知らないのだ」ということを知っている人は、春秋の世界があることを知っている人です。
つまり《法の深信》(仏法の智慧のはたらき)なしに《機の深信》(智慧に照らされて知る自分の分限を知る)ということがあるはずがない。分限の自覚は、私を生かしている大きな世界、法のはたらきというものに、初めて頭が下がった人。分限の自覚というのは、全体に目が開けたということを抜きにしてはあり得ない。全体への開眼なくして分限の自覚ということはないことです。
その人の本当の姿を知らしめ、分限を明らかにし、うなずかせしめるということは、実は、そういう全体、法の世界に眼を開かしめ、真実の法の世界にその人を導き入れることなのであります。
人間とは何か、人生とは何か、という全人的な課題を考える時には、自分の理知分別の分限(科学的思考の分限)を知らされ、わきまえながら、全体的視点の仏教の智慧に耳を傾けることが必要と思われます。 |