3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2559)

 大学の先輩(昭和41年卒)が「医療と仏教」の関わりの黎明期に関係していたことを知ることができ、なんとか連絡先を探して遺族と連絡が取れた、先輩は亡くなり10数年を経過しているとのことでした。その資料の一部を紹介します。(#3.は別の情報)
『私の一里塚』(Milestons of my life) 小牧専一郎(放射線科医師、鹿児島市豊島病院元院長)
小牧―長倉連携の始まり
(前略)私自身(小牧専一郎、九大仏青の先輩)は、かねがねターミナルケアに宗教を組み込まねば、と思っていました。枕元にお坊さんに来て貰う事を希望する患者さんがいたら、是非お願いしようと思っていました。そしてついに二人の方に巡り会いました。

#1.斉藤さん 58歳男性
 後腹膜の肉腫に対して、3年前から3回の手術を当院で受けた方です。最後の手術では色々な臓器にガンがくっついており、完全に切ると出血死する恐れがあり、大半を残して腹を閉じました。
 この事は彼に伝えなかったのですが、時間と共に増大し、いよいよ最後が近づきました。しかし如何に腹がパンパンに張り、痛くなろうとも愚痴一つ言わず耐えていました。私は殻の見事な耐えっぷりを驚嘆の眼差しで見ていました。でも、いよいよ一人では歩けない程重症になった段階で死を悟ったのでしょうか、悩みを喋りはじめました。特に気になっている事といえば、その昔、詰まらない夫婦喧嘩で家を飛び出し、以後妻子の生活の面倒をみなかった事、実家にも出入りし難くなり、実の母の葬式に出なかった等でした。これを聞いて始めて彼がじっと痛みを耐えていた理由が分かったような気がしました。つまり自分を罰していたのです。しかしながら私がこの悩みを聞いてあげただけでは,何等彼の心の重石を取る事にはならなかった様です。そこで私はこれこそビハーラにお願いしようと思い、長倉先生にお願いすることになりました。先生は心やすく来てくださいました。彼のその前後の興奮状態は見物でした。
 その日は朝からそわそわしていたのです。私が病室に行くと一人歩きも出来ない状態なのに、「何を着ましょうか。何をお礼にしたら良いでしょうか」と、聞く姿は、まるで小学校の遠足前というところでした。部屋は二人部屋でしたので、その間だけ一人部屋に移しました。そして色々と話したそうです。内妻の奥さんも一緒でした。
 お坊さんが帰られた後の彼は晴れ晴れとした顔、これは一生忘れられません。そして、「良かった、良かった」と繰り返すのです。後日、長倉先生にどういうお話をして頂いたのですかと、尋ねたところ、要点としては、(1)世の中には、この方よりも家族に酷(むご)い事をした人がおり、そういう人でも仏様はちゃんと救ってくださるという事、(2)母への供養のお勤めをお寺でしてあげる約束をした事。
 この様なお話を我々医師にせよと言われても、それは逆立ちしても出来ません。その道の方が、それらしく喋って始めて有り難くもなろうというものです。お陰様でこの方は長倉先生がまた来ると約束して下さいましたので、それを楽しみに、残り20日位を生きました。往生後の彼の顔は安らかで、正直ほっとしました。
 尚、死後長倉先生と話して分かった事ですが、一回目の訪問の折り、「今、何が気がかりですか」との問いかけに対し、彼は「後妻が神経痛を患っていまして、私がいなくなった後、苦労するかと思うと不憫でなりません」と言ったそうです。するとそれまで傍らで暗い顔をして話を聞いていた内妻の顔がパッと輝いたそうです。内妻という立場にしてみれば、これ以上の”愛の告白“はないと思います。
 結局、この方に対するビハーラの役割として、本人に安らぎを与えたのみか、残された人にも愛を残したと言えましょう。とても医師の私に出来ることではありません。本当にビハーラにお願いして良かったと思います。

#2.日高さん 70歳女性
 この方は他県で子宮がんの治療を受けた後、故郷に帰って参りました。局所の治療が終わっていましたが、腹部に転移があったため、終末期医療を求めて私どもの病院にこられたのです。ビハーラ会員の紹介でした。姉や本人は熱心な仏教徒でその方とも知り合いだったのです。そういう事で、この方は最初から時期が来たら、ビハーラにお願いしようとタイミングをはかっていましたが、。姉を通して何回となく呼びかけても、結構です、と断るのです。そこで遠慮しているのではと考え、今度は直接私がお話致しましたところ、本当はお坊さんの来訪を期待していたことが分かりました。ところがその頃はかなり弱っており、起きて対応出来ない状態でした。それでも、精神はしっかりしていましたので横向きに寝て、お坊さんに対応しました。
 この方についても私は立ち合いませんでしたので、お話の内容は分かりませんが、彼女はとても喜んでいました。そしてまた会う日を楽しみにしていたのです。痛みや衰弱で一日が長いであろう方にとっては、これこそは唯一の楽しみではなかろうかと思われました。
 尚、この方はその昔、大根占のお寺で発起人になって聞法の会を作り上げ、そして育て挙げた方ですので、その経緯を長倉先生が聞き取って文章に纏め、それを「大乗」に掲載して貰う事になりました。彼女はそれが出るのを楽しみに待っていました。残念ながら雑誌が出る半月前に亡くなりましたが、安らかに眠るが如く往きました。

#3.昨年、増田進医師(「沢内村奮戦記―住民の生命を守る村 」、1983等で有名だった)の最近の情報を目にして、さっそく先生へ手紙を書きましたら、丁寧なお返事を頂きました。その一部。(田畑との私信)
(前略)あれは古い病院の頃でしたから昭和40年代の後半です。患者は50歳代の女性でした。隣接する秋田県の病院で横行結腸癌の手術を受け、沢内病院へ紹介され自宅療養となったのでした。
 患者さんは元気になると頑張っていたのでしたが、ふとしたことで夫婦が口論になった時、ご主人が「お前はガンでもう治らないんだ」と言ったことがきっかけで、彼女は地獄の思いに落ちたのでした。往診していた私は「本当にガンか、今まで隠していたのか、治療はしているのか」と責められました。私はありのままを話し、抗がん剤を使っていることなどを説明しましたが納得したように見えても元気が失われました。
 やがて病状が悪化し入院しました。彼女は「目を開ければ鬼が来る、目をつぶれば地獄が見える」と訴えられたものでした。その時、近くの病室にいたおばあさんが彼女の枕元に繁く通ってくるようになりました。そして「死ぬのは怖くないよ。お念仏を称えなさい」と繰り返し言うのです。そのうち彼女はおばあさんのいうとおりお念仏を称えるようになりました。やがて彼女は落ち着き表情も穏やかになってきました。笑顔も見られるようになって私たちもほっとしたものでした。そして安らかに永眠したのです。そのことを当時の村長に「村長さんよりすごい宗教者がおられましたよ」と話した記憶があります。

 田舎で長く暮らしていますと、ここの人々の生死に対する達観といいますか素直さを感じ、私はよく「街の人たちはかなわないね」と言ったものでした。本当に尊敬する村人がいたものです。(後略)

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