5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

 師は夫婦とは最初は男女の関係で始まるかも知れないが、だんだん「友よ」という関係になることが大事だと教えていただいていました。夫婦の微妙な関係の先人の言葉を拾いました。

#1.(秋月龍a:「新大乗」の旗のもとに.東方出版,1988.)より抄出一部改変
 「家に帰って細君と何か話をしている、そんなとき、どちらかがちょっと相手の気にさわることを言う、そのとたんに、今までの和気あいあいたる雰囲気が、たちまちふっとんでしまう。ちょっとした言葉の行き違いであった。実はそんなつもりで言ったのではなかった。相手のためによかれと思って言った発言であった。それなのにそんなふうに取られるのはまったく心外だ、長年連れ添ってきて、そんなことも分からないか、と思うから、つい余計にむかっとくる。
   ところが、細君のほうでは、実はただそのときだけの発言で怒ったのではない。何日も前から、知らず知らずに不満がうっせきしていた。それがその一言を縁に爆発したのだから、根は深い。こうなると、もう売り言葉に買い言葉で、百年の仇敵さながらの修羅世界を夫婦のあいだで現出することになる。
 私たちの公案修行など、たいていそんなものだ。だから、親父ひとりの修行に止まって、それが細君に及ばない。まして息子や娘に対してはまったくなんの力もない。これでは何の修行かである。
   私の長男の中学の先生が、私の著書を本屋で買われたという。読んでいくうちに、自分の受持の生徒の父親だと気づかれたらしい。その先生が母親参観日に、家内に言われたという、“秋月先生は東大や早稲田やお茶の水や日本女子大の学生たちに参禅指導をしてくださっていると聞くが、まず自分の息子の教育をしていただきたいものだ。うちの中学で何か問題が起ったとき、お宅の息子さんがその仲間に入っていないことはない”と。」(158-159 頁)
   「禅の修行と言っても、たいていは一家の主人がひとりだけ道場に通って、坐禅を習い、公案をいただいて、やがて見性して、何年もかかって次々と公案を数えていく。しかし、それだけが修行だと誤って、ふだんの一念一念の修行に心がゆかないと、それはただ檀那だけの修行に終わってしまって、それが奥さんや子供たちにはまったくなんの影響も及ぼさないことになる。それでは修行といっても、結局いわゆる檀那芸である。まあ、一般にいう『居士禅』などというのは、そんなものである。
 私の家庭だって同じようなものである。 私の家内も、結婚したてのころは、道場で坐禅をして、入室こそしなかったが、苧坂光龍老漢の提唱をまじめに拝聴していた。しかし、子供が生まれると、もうその世話で手いっぱい、母親はただひたすら、子供のために生きていく。主人のしていることに理解はあっても、何せその主人がはたしてお悟りとやらを開いているのかどうか。第一、心で何かを見たといっても、その見たものが身についていないことを、いちばんよく知っているのが家内だから、しまつが悪い。
   主人が外から帰ってくる。奥さんが“お帰りなさい”という。そして、しばらくは穏やかな話し合いが続く。ところが、ちょっと何か奥さんの言葉が心にささる。“仕事で疲れきっているのに、それも察しないで”と、ついむらむらっとくる。奥さんのほうでも、“疲れているのは、あなただけではないわ”と思う。もういけない。さっきまでの和気あいあいたる雰囲気はどこかへ飛んでしまって、互いの心と心とが離れてしまう。そうなると、もうまるで百年の仇同志のようになる。こんなことは誰しもが常に経験することである。他人ならがまんするが、親しい身内だとそれがない。そこでは、へたなお悟りなど役に立たない。
 そこである。その瞋の念を一念で止めて、二念を続がない。みずから“〈修羅心〉にしかえたな”と気づいたら、そこですぐに取って返して“正念を相続する”。」(171-172頁)
(以上は、知人が紹介してくれた文章。秋月龍a師は“鈴木大拙師の弟子”と言われていました。)
田畑のコメント「感情の奴隷になるな、南無阿弥陀仏」

#2.榎本栄一さんが、難波別院から発行されている「南御堂」に書いておられたという。
   「結婚して、痛切にわからしていただいたことがある。それはこの世の中に思い通りに出来る人が一人も居ないということを痛切にわからして頂きました。」
 結婚して40数年が過ぎて、今、この言葉は味わい深い言葉です。分別の理想主義への執われを知らされると同時に、ほっと、南無阿弥陀仏と安心できます。

#3.あるお寺のHPから(一部田畑が改変)
 親鸞聖人が法然上人に出遇う前、生き方に迷っていてお堂に篭ったという記録があります。百日間の修行も終わりに近づいた頃、夢の中で、枕元に「救世菩薩」がお立ちになりました。「あなたが結婚のことで悩んでおられるのならば、私がその相手となって、あなたと結ばれましょう。そして、一生の間、あなたと人生を共に暮らし、あなたをお浄土へと導いていきましょう。」
 夢から覚めたお坊さんは、僧侶の妻帯という、当時の常識では考えられなかった行為を実現し、自らの人生を歩まれたのでした。この人こそ、私たちにお念仏のみ教えをお示しくださった親鸞聖人であります。妻になる女性を「菩薩」と見ていかれたのが、親鸞聖人の結婚に当たっての相手の見方でありました。妻となられた恵信尼さまも、夫の親鸞聖人を「観音菩薩の化身」として見ておられたことが、彼女のお手紙に書かれてあります。つまり、夫婦で、お互いを「菩薩」として見ていかれたのが、親鸞聖人と恵信尼さまの夫婦関係であったわけです。
 結婚する、夫婦になるということは、単に快楽を求め合うためではなく、お互いが仏道を歩むパートナーとして、人生を共に歩んでいくということであると教えていただくのです。
 お念仏を中心にした家族のあり方とは、夫婦がお互いを「仏道を歩むパートナー」として見ていく生き方から始まるように思います。そこには、「夫菩薩・妻菩薩」だけでなく、「父菩薩・母菩薩」、あるいは「子供菩薩・孫菩薩」だっているかもしれません。
 そんな菩薩たちが、私と共に仏道を歩み、互いに育てあいながら、この人生を共に進んでいくのです。そんな愛する家族に、先立たれてしまうこともあるのは、どうしてなんでしょう。それは、その人の修行が、一足先に終わったからです。悟りを開くための修行が終わったとき、私より一足先に仏さまになって、私をお浄土から喚んで下さるのでありましょう。そんなふうに家族のあり方を考えていけるのが、お念仏を中心とした家族ではないかと、あらためて思います。

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