6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)
事実と真実について
なぜ大衆部系の一部が浄土経典を作り、それを釈尊の仏教の真実の解釈であると味わっていったのでしょうか。
それにはまず、浄土経典が独特の発想より生まれたことを知らねばなりません。つまり今までの仏教のほとんどが、法(ダルマ)を理論的に説く哲学型:・理論型であったのに対し、物語の中に法の心を込めて人間の感性に訴え、それによって「法とは何か?」という釈尊以来の課題に答えを出してゆこうとしたのが、浄土仏教なのです。もちろん哲学(理)がないのではなく、物語(情)の中にくるまれているという意味であります。ちょうどスモウに例えれば、押し相撲のような正攻法ではなく、けたぐりやうっちゃりといったような表現上の奇攻法と言えましょう。
こう書くと、いかにも品が無いようですが、これは例えが悪いからで、理論が理論を生んで本来の目的を忘れ、まさに滅びようとした時代状況を考える時、このような方向性は、実にすさまじい発想の転換と言わざるを得ません。と同時に、浄土仏教に対する後世(特に現代)の誤解の大半は、この方向の特殊性によっています。
浄土経典にしるされた事柄は、事実ではありません。それではウソなのか? こう問いかける人の顔が見えるようでうす。が、ウソでもありません。正確に言えば、事実ではないが真実であるということです。さらに正確に言えば、事実ではないが真実であるということです。さらに正確に言えば、それ(真実)をさし示す指ということです。
事実とは何でしょうか? ただ現実に行われたこと、というだけです。それは真理・真実とは何の関係もありません。それでは真実とは何か? これこそ釈尊の発見された法則、即ち法(ダルマ)のことです。本来表現が不可能なものです。よって、もともと表現できぬものを表現したのが浄土教である。という特異性をまず知らねばなりません。
では、我々はお互いの経験を超えた現象や事物を、どんな表現で他人に伝えるでしょうか。正直には、自分だけが体験し得た事柄をです。身近な例ですが、リンゴという物があります。見たり食べたりしたことの全く無い、いわゆる未経験の者がいるとします。その何たるかを是非知らせねばならぬ時、我々はどうするでしょうか?
「リンゴはリンゴじゃ、他にどう言う」とひらきなおるか、「何々のようなモノ」というかたちで、経験の範囲内のモノを引いてきて説明するしかありません。前者が禅宗であり、後者が浄土教です。
つまり、あくまでも表現しようとすれば、さまざまな角度で追求したあげく、「何々の如し、如し」を連発するしか手が無いのです。「種類は果実である。その点、カキの如し。形は大ならず小ならず、上にシンあり。その点、ナシの如し。色は赤氏。その点トマトの如し。味は甘ずっぱい。その点、アンズの如し。またスモモの如し………」と。リンゴはあくまでもリンゴであって他の何ものでもありません。けれども、リンゴはカキでありナシでありトマトでありアンズでありスモモである、と表現することによって、はじめてリンゴの未知なる者もリンゴへと跳ぶことがかなうのです。表現を尽くして表現を超える。このような発想で成立したものが浄土三部経であり、ここにこそ浄土仏教の面目があります。
「阿弥陀経」を聞いて、「あんな浄土がありますか?」と冷笑する人がいます。反対に、「あのとおり、あれがそのまま事実だ!」と怒り狂う人もいます。専門家もそうでない人も、浄土仏教特有の表現についてあまりにも誤解をしています。事実を真実をごっちゃまぜにしています。お互いに事実でなければ絶対に真実でないかの如く。
宗祖の引用にいわく、「言葉(表現)は月(真理)を示す指である。けれども人は見な、指にとらわれて月を見ない。指が無ければ月は見えないけれど、かと言って指がそのまま月であることはないのに」と。要するに、指の真価(ねうち)というのは、いかにキワギワまで月をさしているかであって、事実かどうかを問題にする必要は全く無いのです。そのような発想こそは、宗祖が悲しんだ指と月との混同より生じたものに他ならないのですから。
浄土仏教は物語であります。物語とはいわゆるハナシであります。有ったことか無かったことかと問われたら、無かったことと答えるしかありません。しかし、このハナシには発想があります。表現を尽くして尽くして、いつかそれを超えてゆこうという。そして情熱があります。今まさに滅びゆく仏教を、もう一度生かそうという。我々はそのような背景により表現された法(ダルマ)を、聞くのみです。如是我聞、我かくの如く聞く、と。浄土教は、聞に始まり聞に終わります。、指は指でしかないことを肝に銘じて、しかも指を見ていると、いつか月が見えてきます。その時はじめて私達は、法(ダルマ)を知るという最終の目的を達し、指と月との関係をも真に知ることができるのであります。 「学仏大悲心」ほとけのおしえ 詩と言葉 (大神信章著、探究社、H25年)よりp23-27
10数年前、光林寺( 〒871-0904 福岡県築上郡上毛町大字安雲750 )の寺報を私が主催する「歎異抄に聞く会」への参加者から頂き、大神住職さんの存在を知ることになりました。その後著作を入手して、仏法を非常に深く頂かれた僧侶であると認識していました。一度だけお寺を尋ねて行き、本を分けていただいたことがありました。その後、大神さんの親戚のお寺にご縁があった時、年齢にしては早く亡くなられたことをお聞きしてビックリした記憶があります。最近、光林寺にご縁をいただくことがあり、新住職さんから前住の残された記録を本にされたということで「学仏 大悲心」の著作をいただき、読み進める中に多くの教えをいただくことができました。 |