7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

 2010年5月17日の医学界新聞(医学書院発行)第2879号に、第8回英国緩和ケア関連学会報告 と題して「緩和ケアをすべての疾患に拡大する、 医療における第3のパラダイムシフト」 加藤恒夫氏の記事が掲載されていました。頷くところがあって、記録して保存していました。以下がその記事の最初の所です。
 「Good Deathを包括した公衆衛生的アプローチ」  (前略) 彼らがめざしているのは,医療の中でこれまでタブー視されてきた「死」を「誰にも訪れる必定」ととらえ直すこと,そして,これまでのCureをめざす医療をGood Deathを包括する医療へと転換していくことである。
I.Higginsonは,医療の第1のパラダイムシフトは近代医学の発展による感染症の克服であり,第2は近代ホスピス運動の開始である(ひたすらCureを追求し,人間を生物学的モデルのみとして扱い,医療現場から人間性を剥奪してきた近代医学に対するアンチテーゼ)と語る。それならば,「終末期ケアの非悪性疾患への拡大」は,死を “Good Death” として医療対象化した第3のパラダイムシフトにほかならない。
 少し解説します。日本の厚生労働省が認可する緩和ケア病棟の対象になる患者は悪性腫瘍(がんと肉腫)とエイズだけが対象であって、他の疾患の場合には緩和ケア病棟に入院できません。西本願寺が指導するビハーラ運動では悪性腫瘍やエイズに限定せず、すべての老・病・死によって引き起こされる四苦に対応することが目指されています。
 パラダイムシフト( paradigm shift )とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することをいいます。2010年の第8回英国緩和ケア関連学会で「緩和ケアをすべての疾患に拡大する」という方向が示されたこと、それに「死を“Good Death” として医療の対象とした」ということが一つの節目に当たるとの報告でありました。
 「死を “Good Death” として医療の対象とした」ということの内容を考えてみたいのです。緩和ケアの領域で有名な柏木哲夫氏は「死の医学化」ということで「死」は医学・医療の対象にすべきではないと発言されていました。日本のそれまでの医学界が死をタブー視して先送りすることだけを目指して、「死」を正面から取り組もうとしなかった状況の反映だと思われます。確かに「死」は患者や家族の私的出来事であり、医学・医療はかかわらなくてよいというという姿勢でした。
 科学的合理主義の医学・医療は“Good Death”という課題に何をどう考えていくだろうか。「尊厳死」「安楽死」「自然死(老衰死)」「満足死」などが思い浮かぶが……。具体的にどうなることを願っているのだろうか。人間の都合に合わせた Good とは見たくない「死」をサッと終わる、ピンピンコロリということぐらいでしょう。宗教性を排除した日本の医学界では対応できないと思われます。
 「死」を考える時、仏教を学んで気付かされることは、ヒト(動物学的ヒト)から人間(間柄を知る存在、因や縁によって生かされていることを知る存在)へ、そして人間から仏へ、と教える物語があるということです。仏とは完成した、成熟した人間を想定しています。
 仏教では世間生活をしている我々は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という6つの状態を経めぐっている存在である指摘します。仏の智慧の光に照らされると地獄・餓鬼・畜生の三悪道を生きている自分の姿を思い知らされます。考えることをせず本能のままに(畜生)行動し、損得、勝ち負けと都合の良いものだけを取り入れようとします(餓鬼)、そして周りの人に迷惑をかけ苦しめる存在(地獄)として生きて、そんなことに慙愧することなく当たり前にしています。
 現代の日本の医療が扱う対象は「人間を生物学的モデル」としたものということができます。個性を持たない存在の如く、病気を相手にしてきたのです。感染症との闘いを主にしてきた時代はその対応で間に合っていたでしょう。公衆衛生、栄養状態の改善と抗生物質の出現で感染症との戦いに大きな成果をあげ長生きできるようになりました。その長生きの結果、悪性腫瘍が対象疾患として多くなり、ホスピス運動の展開の中で患者の生活・生命の質(QOL,quality of life )を大事にすることを考え機運が出てきました。個々の患者に人間らしい対応(生物学的ヒトではなく)が求められるようになってきたのです。人間を人間たらしめているモノは何かが問われてくるというパラダイムシフトだということです。
 生命・生活の質を考えるその先に「よき死」ということが課題になって来たのです。今までの医学・医療では「死」を出来るだけ見ないように避けて逃げて先送りしてきたのです。そのために「よき死」ということに対応する文化の蓄積がないということに気付き始めているのではないでしょうか。2010年5月17日の医学界新聞(医学書院発行)第2879号に、第8回英国緩和ケア関連学会報告 と題して「緩和ケアをすべての疾患に拡大する、 医療における第3のパラダイムシフト」 加藤恒夫氏の記事が掲載されていました。頷くところがあって、記録して保存していました。以下がその記事の最初の所です。
「Good Deathを包括した公衆衛生的アプローチ」  (前略) 彼らがめざしているのは,医療の中でこれまでタブー視されてきた「死」を「誰にも訪れる必定」ととらえ直すこと,そして,これまでのCureをめざす医療をGood Deathを包括する医療へと転換していくことである。
I.Higginsonは,医療の第1のパラダイムシフトは近代医学の発展による感染症の克服であり,第2は近代ホスピス運動の開始である(ひたすらCureを追求し,人間を生物学的モデルのみとして扱い,医療現場から人間性を剥奪してきた近代医学に対するアンチテーゼ)と語る。それならば,「終末期ケアの非悪性疾患への拡大」は,死を “Good Death” として医療対象化した第3のパラダイムシフトにほかならない。
 少し解説します。日本の厚生労働省が認可する緩和ケア病棟の対象になる患者は悪性腫瘍(がんと肉腫)とエイズだけが対象であって、他の疾患の場合には緩和ケア病棟に入院できません。西本願寺が指導するビハーラ運動では悪性腫瘍やエイズに限定せず、すべての老・病・死によって引き起こされる四苦に対応することが目指されています。
 パラダイムシフト(paradigm shift)とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することをいいます。2010年の第8回英国緩和ケア関連学会で「緩和ケアをすべての疾患に拡大する」という方向が示されたこと、それに「死を“Good Death” として医療の対象とした」ということが一つの節目に当たるとの報告でありました。
 「死を“Good Death”として医療の対象とした」ということの内容を考えてみたいのです。緩和ケアの領域で有名な柏木哲夫氏は「死の医学化」ということで「死」は医学・医療の対象にすべきではないと発言されていました。日本のそれまでの医学界が死をタブー視して先送りすることだけを目指して、「死」を正面から取り組もうとしなかった状況の反映だと思われます。確かに「死」は患者や家族の私的出来事であり、医学・医療はかかわらなくてよいというという姿勢でした。
 科学的合理主義の医学・医療は“Good Death”という課題に何をどう考えていくだろうか。「尊厳死」「安楽死」「自然死(老衰死)」「満足死」などが思い浮かぶが……。具体的にどうなることを願っているのだろうか。人間の都合に合わせた Good とは見たくない「死」をサッと終わる、ピンピンコロリということぐらいでしょう。宗教性を排除した日本の医学界では対応できないと思われます。
 「死」を考える時、仏教を学んで気付かされることは、ヒト(動物学的ヒト)から人間(間柄を知る存在、因や縁によって生かされていることを知る存在)へ、そして人間から仏へ、と教える物語があるということです。仏とは完成した、成熟した人間を想定しています。
 仏教では世間生活をしている我々は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天という6つの状態を経めぐっている存在である指摘します。仏の智慧の光に照らされると地獄・餓鬼・畜生の三悪道を生きている自分の姿を思い知らされます。考えることをせず本能のままに(畜生)行動し、損得、勝ち負けと都合の良いものだけを取り入れようとします(餓鬼)、そして周りの人に迷惑をかけ苦しめる存在(地獄)として生きて、そんなことに慙愧することなく当たり前にしています。
 現代の日本の医療が扱う対象は「人間を生物学的モデル」としたものということができます。個性を持たない存在の如く、病気を相手にしてきたのです。感染症との闘いを主にしてきた時代はその対応で間に合っていたでしょう。公衆衛生、栄養状態の改善と抗生物質の出現で感染症との戦いに大きな成果をあげ長生きできるようになりました。その長生きの結果、悪性腫瘍が対象疾患として多くなり、ホスピス運動の展開の中で患者の生活・生命の質(QOL,quality of life )を大事にすることを考え機運が出てきました。個々の患者に人間らしい対応(生物学的ヒトではなく)が求められるようになってきたのです。人間を人間たらしめているモノは何かが問われてくるというパラダイムシフトだということです。
 生命・生活の質を考えるその先に「よき死」ということが課題になって来たのです。今までの医学・医療では「死」を出来るだけ見ないように避けて逃げて先送りしてきたのです。そのために「よき死」ということに対応する文化の蓄積がないということに気付き始めているのではないでしょうか。
 仏教は私の心の状態が六道輪廻している存在であり、迷いの輪廻を超え(解脱)て、仏道を歩む存在に転じる。その初めを声聞・縁覚(自分の目覚めだけを目指す存在、他へ配慮がない)と言います。それがさらに展開して他への配慮をする存在、菩薩へと進展します。菩薩は頭を低くしてあらゆる存在(諸仏、菩薩)から智慧を学び続けます。その謙虚な姿勢と学んだ智慧が増えて、多くの人から、「あなたは菩薩ではない仏さんです」と言われるように成熟して人間として完成した存在になっていくのです。それを世尊のような仏さんというのです。仏仏相念という様に仏のレベルにならないと仏の内容は受け取れないという。我々の理知分別では仏の世界は分からないのです。人間として成熟するとは仏の智慧に育てられて「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」という人生(年をとって何もよいことはないと愚痴をいうのではなく)を歩む存在になるということです、それは人間として完成するということでしょう。念仏して往生浄土の歩みをする者は生身が尽きたとき、私を超えた仏(南無阿弥陀仏)になると教えているのです。
 私に先立って、往生浄土して仏さんになった存在は、南無阿弥陀仏となって、我々衆生に浄土に生まれたいと欲する(欲生我国)ようになってくれとはたらいて(還相回向)いるのです。その働きを感得する者は、今、ここで、南無阿弥陀仏と念仏する存在(願生浄土)に転じられ、往生浄土して成仏し、自然と衆生済度のはたらきを展開するようになるのでしょう。「よき死」とは、浄土の教えのごとく、念仏して、往生浄土して「仏に成る」ことではないでしょうか。
 仏教は私の心の状態が六道輪廻している存在であり、迷いの輪廻を超え(解脱)て、仏道を歩む存在に転じる。その初めを声聞・縁覚(自分の目覚めだけを目指す存在、他へ配慮がない)と言います。それがさらに展開して他への配慮をする存在、菩薩へと進展します。菩薩は頭を低くしてあらゆる存在(諸仏、菩薩)から智慧を学び続けます。その謙虚な姿勢と学んだ智慧が増えて、多くの人から、「あなたは菩薩ではない仏さんです」と言われるように成熟して人間として完成した存在になっていくのです。それを世尊のような仏さんというのです。仏仏相念という様に仏のレベルにならないと仏の内容は受け取れないという。我々の理知分別では仏の世界は分からないのです。人間として成熟するとは仏の智慧に育てられて「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」という人生(年をとって何もよいことはないと愚痴をいうのではなく)を歩む存在になるということです、それは人間として完成するということでしょう。念仏して往生浄土の歩みをする者は生身が尽きたとき、私を超えた仏(南無阿弥陀仏)になると教えているのです。
 私に先立って、往生浄土して仏さんになった存在は、南無阿弥陀仏となって、我々衆生に浄土に生まれたいと欲する(欲生我国)ようになってくれとはたらいて(還相回向)いるのです。その働きを感得する者は、今、ここで、南無阿弥陀仏と念仏する存在(願生浄土)に転じられ、往生浄土して成仏し、自然と衆生済度のはたらきを展開するようになるのでしょう。「よき死」とは、浄土の教えのごとく、念仏して、往生浄土して「仏に成る」ことではないでしょうか。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.