8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

 NBM(narrative based medicine、物語に基づく医療)という概念が出てきて久しい。一人の個性をもった人間らしさを尊重する医療、病気に留まらず、病を持つ人間を大事にする医療、患者の人生観、価値観を大事にする医療をNBMという。EBM(evidence based medicine、合理的思考による医療)+NBMで全人的に対応ができるという考えです。科学的合理主義は生物学的人間をモデルにして、病気に対応する傾向がみられます。
 病気を相手にした医療から病人を相手にした医療へと展開するとこが大事だという認識が出てきています。次の文章はそのことを示しています。
「看取り先生の遺言」奥野修司著 岡部健医師の聞き書き p112-223
 治療一辺倒だった私の考えを一変させる患者さんに出会った(昭和50年頃)。私が当直をしていたときである。結核手術で肺がつぶれ、肺機能が低下していた60歳代の男性が、肺炎を起こして緊急入院してきた。(中略)当時この症状で生きて退院するのはむつかしく、病院でそのまま亡くなるのが普通だったのに、気管を切開して管を入れ、吸引機で痰さえとれば生きていられるまで回復させた。私は治療成果に得意満面だった。その後、ずっと外来で診てきたのだが、2年ほど経ったある日、肺炎を起こしてふたたび入院した。そのとき、いきなりこう言われたのだ。
 「(気管チューブを)全部はずしてくれ」 私は「この管を外したら、痰が溜まって亡くなってしまう。そんなことはできない」と説得したが、患者さんは毅然(きぜん)として翻(ひるがえ)さなかった。「お前が若くて一生懸命だったから我慢してきたが、もういい加減にしてくれ。このまま生きていても家族に迷惑をかけるだけだし、生きていることに未練はない。親しい友人はみんなシベリアで死んだ。あの世に行ったら会えるかも知れない。あの世で会いたいが、かといって自殺はしたくない。頼むから自然に逝かせてくれ」「我慢していた」と言われたときは本当にショックだった。
 私の説得には耳をかさず、最後には「外さないと飛び降りる」とまで言われたのだからどうにもならなかった。
 私はどうせ呼吸器を外したら痰がからんで苦しくなるから考えも変わるだろう、その時はまた管を入れ直せばいいと思ってので、「今だったら戻せるから、もう一回、挿管してみないか」と言い続けたが、彼は最後まで「いらない、自然に最後の時を過ごさしてくれ」と拒み続け、数日後に亡くなった。
 延命よりもはるかに強い欲求があることに気づかされ、私は人工呼吸器をつけたことがよかったのかどうか悩んだ。それに、我慢させていたなんて、私は何をやっていたんだ。(中略)医者が患者の命を救いたいと最善を尽くしても、それは医者の自己満足に過ぎないこともある。そのことを、この男性は体を張って教えてくれたのだと思う。 このことで、自分たちがやっている医療への視点が変わらざるを得なかった。すぐに何かが変わったわけではないが、より患者の視点に立つようになったと思う。希望があれば、できるだけ告知をするようになったのも、その頃からである。(後略)

 最近は、Human Based Medicine(HBM)、Whole Person Care(WPC)という考えも出てきています。以下の記事を参照してください。

#1.がん医療のHuman Based Medicine 高野 利実氏、医学界新聞第3183号 2016年7月「求められるEBMを“越えた”学び」
高野: がん医療は着実に進歩し、テレビや雑誌、インターネットなどにはがんの情報が溢れかえっています。しかし、がん=不幸、治らない=絶望、死=敗北といったイメージが根強く残っていることもあり、国民のがんに対する実際の理解は、あまり深まっていないようにも思えます。メディアは、医療の不確実性やリスクとベネフィットの微妙なバランスを伝えるよりも、白黒はっきりと切り分けたセンセーショナルな情報を流すことを重視しがちで、時にそれが誤ったイメージを助長しているのです。このような中、医療者は医療の限界や不確実性も踏まえながら、患者さんの「意思決定を支える」という難しい役割を担っているわけです。

――「意思決定を支える」ために、医療者にはどのような学びが必要なのでしょうか。

高野 不確実性の中で最善の医療を行おうというのがEBM(Evidence B.M.)であり、今の医療の原則となっています。よって、まずはEBMを正しく理解して実践することが重要です。臨床現場で疑問に直面したら、エビデンスの検索・吟味を通して最善の選択を検討し、患者さんに提示します。今の時代、エビデンスを知ること自体はそれほど難しいことではありません。ガイドラインも整備され、標準治療を解説した書籍もたくさん出回っていますので、標準的な治療方針を考えるための知識は比較的容易に得られるでしょう。でも、教科書通りの治療を行うのが100点満点であるというなら、そもそも医師は不要ということになってしまうのではないでしょうか。

 EBMの一番重要なステップは、目の前の患者さんの幸せにつながる医療を行うことです。私は、この部分をHuman Based Medicineと名付け、EBMをより深化させた医療として提唱しています。病気や医療は実に多様ですが、それを抱え込む人間という存在はもっと多様で、一人ひとりの価値観もバラバラです。EBMが「最大多数の最大幸福」をめざす医療だとすれば、HBMとは、「一人ひとりの、その人なりの幸せ」をめざす医療です。ただ、これは教科書で学べるものではありません。いつも目の前の患者さんの幸せを考え、日々の臨床現場で悩みながら身につけていくものだと思っています。

#2.21世紀の医療のパラダイムシフト― Whole Person Care(WPC) 松岡順治
 カナダ、マギール大学医学部では1999年から医学部教育において、WPCを基本においた教育を行っている。「単に病気を診断し治療を行うだけではなく、がんをはじめとする治療困難な病気とともに生きる人々に寄り添い、癒し人となり得る医療従事者を育てる」ことを宣言し、実践している。このWPCの概念は医療のあり方の根本を変える可能性を秘めている。WPCはCuring とHealing を同時に行う医療である。
Curing(治る)とHealing(癒る)
 病いを克服する過程には2つあると考えられる。この概念がWPCの根幹をなしている。従来の医学においては、患者は病いと一体であるから病いを治せば自然と患者も幸せになると考えてきた。

 病いを治療することによって一分一秒でも長く生き永らえればそれで患者も幸せになると、医療者も国民も信じてきた。これを達成するために様々な研究が行われ、その結果医学の進歩とともに生命の延長が可能となってきた。しかしながら、われわれは今、単に生物学的に長く生きることがそのまま幸せにつながるものではないことを知ってしまった。

 WPCでは病いを持つ患者の治癒過程を、のようにとらえている。すなわち病いを克服するにはCuring(治る)とHealing(癒る)が必要である。Curing とHealing の関係は病いの時期や個人によって様々である。診断時あるいは早期においては病いの根治する可能性は高く、Curing が治療の主たる位置を占める。しかしながら、病いによる患者のつらさは医療者によるHealing のためのケアを必要とする。終末期になり病いそのものが進行し、根治する可能性が少なくなると、Curing の医療における役割は小さくなる。一方で、患者の様々なつらさは病いの進行とともに大きくなるため、そのつらさを癒すHealing が重要な位置を占めるようになる。

 いずれの時期においても患者を健康で幸せにするためには、Curing とHealing を同時に行うことが大切である(WPC)。患者が本来の意味で健康(Healthy)であるためには、Cure のみならずHeal が必要なのである。(CLINICIAN E 2015 NO. 643)

 不安や病気を抱える人間を「全体的」に見て対応しようという考えが認められるようになっている。

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