9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

いのちが一番大切だと思っていたころ
生きるのが苦しかった
いのちより大切なものがあると知った日
生きているのが嬉しかった
(星野富弘)

 星野富弘氏は頸部の脊髄損傷を負って障害を持つ身になって、車イス生活を送られています。ご縁があってキリスト教に出合っています。キリスト教との出合いの世界で「いのちよりも大切なもの」を感得したのでしょう。その結果が前記の歌になっています。
 宗教の世界で「信仰」という言葉が使われますが、浄土の教えの仏教に出遇い、お育てをいただいてみると、改めて「宗教を信仰する」と表現をすること自体が宗教に対して偏見を持たれるのではないかと思われるのです。「仏の教えを頂きながら人生を歩いて行こう」と思いますが、私は仏教を信仰しています、という表現は浄土教では適切ではないように思うのです。キリスト教のような一神教の場合は良いのかも知れませんが……。
 医療の世界で仕事をする中で、医療人の発言で「特定の宗教や信仰は持っていません」という言葉が、自分の宗教との関りで「枕詞(まくらことば)」みたいに使われています。それに「家の属している宗教は○○ですが……」と追加した発言をするときには、「信仰」ということのイメージが、偉大なモノ(something great)への畏敬、教条的信念、不思議な力へ依存、自分の思いを満たしてくれる不思議な力、等を信じるものと想定しているように思われるのです。
 「特定の宗教や信仰を持っていません」という人は日本の教育システムの中で教育されてきて、いわば『科学的合理思考』、「科学的認識法」もどきのモノを信仰していることに気づかないのです。それは自分の思考方法を「これ以外考えられない」「私の思考がすべてだ(絶対だ)」「私は物事を正しく見て判断している」と自信があるのでしょう(仏教ではそのことを邪見、我見と指摘します)が……。
 科学的合理思考では「いのちより大切なもの」を考えることはできないのではないでしょうか。日本の某首相が「人間の命は地球より重い」とかって発言していたことがありました。それなのになんと人間の命が軽く扱われていることでしょう(他人事ではありませんが)。建前と本音の使い分けをしなければならないこの世の現実でしょう。聖徳太子が「世間虚仮、唯仏是真」と言われたように、この世俗世界は「虚仮の世界」なのでしょう。
 「いのちより大切なもの」を考えるにあたって、問題点を教えてくれる文章に出会いました。それは、最近、仏光寺(真宗十派の一つ)でのご縁ができ、一般向けの掲示伝道の標語を集めた本をいただきました。その本の中に次のような文章が掲載されていました。
#1.いのちは大切という人は多いだが、いのちを粗末にしていると気付く人は少ない
#2.いのちが粗末にされているのではなくいのちに向き合う姿勢が粗末なのだ
(京都佛光寺の八行標語より)

 「いのちに向き合う姿勢」が問題にされています。いのちを大切にするということかはいったいどういうことでしょう。非常に価値あるものとして大切に扱う、処遇するという意味でしょうか………。大切にしているかどうかの判断基準を哲学者のカントが示しています。目的の位置で対応(処遇)する時は、尊厳を持って大切にしている。手段・道具・方法の位置で考えているときは、対象物が経済的価値判断によって量られている。値段がつけられるとは、相対的な価値判断でみられることです。手段・道具・方法の位置にあるものは、目的が達成されたときには、使い捨てにされる可能性のある位置にあるということです。人間を手段・道具・方法の位置で扱うという時は、粗末にされていると言うことです。
 仏教は我々の常識からいうと、いわば異質な世界です。異質な世界に触れることで、多くの気づきに導かれるのです。仏教の智慧は我々のモノの見方、考え方、即ち、対象化して客観的に確認する思考法の中に潜む、問題点を指摘するのです。対象化することで、私と相手を切り離し分離させ、3人称的視点で見ることになるのです。
 3人称的に見ると言っても、家族を見る視点と、外国のテレビニュースで話題になる人を見る視点では、関心度・親密度が違って、家族を見る視点は他人事ではありません、と主張したいのですが……。
 理知分別で相手を見る視点は、つめていくと相手を他人事、手段・道具・方法の位置で見ることになってしまうのです、仏教の智慧は、我々の理知分別の思考の背後に潜む問題点、煩悩を見透かして、指摘して、解決の方向を教えようとしているのです(分別の視点は、血の通わない冷たい視点になる。相手を物や道具として見ると、自分も物になってしまう)。
 曇鸞大師の論註には「衆生邪見をもっての故に心に分別を生じ、もしは善もしは悪、かくの如きの分別により種々の分別苦を受く」と説かれています。我々の理知分別には煩悩が潜んでいて(煩悩に汚染されている)、ものごとの判断をゆがめていると指摘しています。
 確かに「いのちを大切に、周りの人に親切に対応しています」と一般の善良な人は言うでしょう。それを否定するものではないのですが。仏教では、「縁次第では、人間はいかなる振る舞いでもする可能性を秘めた存在です」、と智慧の視点で教えているのです。
 「いのちは大切という人は多い、だが、いのちを粗末にしていると気付く人は少ない」という指摘は仏の智慧の視点からです。さらに「いのちを粗末にしている」、その原因を指摘しているように思われます。
 「いのちに向き合う姿勢が粗末なのだ」との指摘は、我々の思考(分別で考える思考、分別知)に潜む問題点を言い当てているのです。
 仏教がそんなに指摘しても、我々の思考では「分別で見ていくしかないではないか」と言いたいのです。そういう「私」に、「汝、小さなカラを出て、大きな世界を生きよ」と南無阿弥陀仏となって「3人称で呼ぶのではなく、『汝、友よ』と2人称で呼びかける関係の実現した世界があるよ」、とよき師、よき友は仏の働きを褒(ほ)め称(たた)えているのです。その働きの大元は本願の働きの世界、浄土に有ることを知らされます。よき師・友のお育て受けてその背後にある本願に触れてゆくのです。そして仏の願いをわが願いとして生きてゆく勇気をいただくようになるのでしょう。
 南無阿弥陀仏という名前となって、我々に届けられている仏の智慧、その智慧によって気付かされるのが我々の普段の生活や思考の有り様です。対象化する分別の知恵は「迷い」である、と限りなく気付かせ、目覚めさせる鏡のように、「南無阿弥陀仏」と念仏することは、私に教えや師を憶念する場をもたらし、その思いが持続し、仏の世界を忘れないように、「呼びかけ、呼び覚まし、仏の世界へ呼び戻す」働きを繰り返すのです。その働きを感得する者は、自分の周囲の人へ「友よ」の呼びかけをする、願いに生きる存在へと導かれるでしょう。

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