10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

「卵の殻の中にいる私」(浄土ということをイメージしながら書いた文章です)

■化学の先生に衝撃受ける
 「彼岸」は阿弥陀仏のまします浄土です。仏の世界であり、私たちの生活するこの世「此岸」を超えた異質な世界です。この異質な世界(仏教、外国語、外国文化など)に触れることで、自分の世界観は相対化され、幅の広い豊かな世界観を持てるように導かれます。
 大学生の時でした。化学の教授で浄土真宗の教えを説かれる師に出遇いました。最初の講義で私は衝撃を受けました。
 私たちは卵の殻の中にいるような存在です。その殻は「自己中心の思い」というものです。私たちは幸せになろうと、善悪、損得、勝ち負けを考えていきます。でも、殻の中にいる限り、その善悪、損得、勝ち負けに振り回されながら時間だけが経過し、卵はやがて腐り、「死」を迎えるしかありません。
 卵は腐って死ぬために生まれてきたのでしょうか。
 決してそうではありません。卵は親鳥に抱かれて、熱を受け、黄身の部分が次第に成長し、ものを見る眼、考える頭、食べる嘴、羽ばたく羽、人生を歩む足ができ、やがて時機が熟して、殻が破れて「ひよこ」になっていきます。
 熱を受けることを仏教では「教え」といい、その教えによって育まれ、ひよこになることを禅宗では「悟り」と言い、浄土教では「信心をいただく」というのです。
 ひよこになって初めて、大きな仏の世界のあることに、そして自分が今まで殻の中にいたことに気付くでしょう。ひよこはさらに仏のお育てをいただき、親鳥になっていく、これを仏に成るといいます。
 このお話を聞いて、「この先生は、私の今までの生き様を見抜かれているのか」と驚き、「大きな仏の世界があるなんて聞いたことがない」という衝撃を受けました。「大きな仏の世界に出てみたい」と思いました。先生は私に継続した聞法を勧めてくれました。

■一生、教えられる身
 仏教の聞法や読書へと導かれた私は、仏の世界は圧倒的に大きな世界であることを知らされました。そして、仏道は無量光(智慧)、無量寿(慈悲)のはたらきに触れ続ける歩みであり、一生、教育を受け続ける道であると気づかされました。
 釈尊をはじめとして、日本では法然聖人、親鸞聖人、諸先輩方、よき師を通し、仏の世界(真実の教え)に触れて育てられます。
 それは、私の思考や視点から見える世界が全てで、それ以外に考えられないという絶対化した世界観が、相対化されるという展開でした。聞法の歩みで気づかされたことは、仏の世界がわかるのではなく、仏の智慧(仏智)に照らされて、自分の相(すがた)に気づかされることでした。
 教えに触れることによって、自分の価値観、人生観の迷いの相に気づかされる歩みに導かれるのでした。私の思考の浅さ、狭さ、局所的で愚かというしかない思考の分際に目が覚める驚きとなっていくのです。一番頼りにしていた性、知性の分別の思考は、どっぷりと煩悩(我痴、我見、我慢、我愛)に汚染されていたと知らされ、がく然としました。

■よき師・友に囲まれる喜び
 よき師を中心にした毎月の1泊2日の求道の集いに誘われ参加する中で、「僧伽(サンガ)」という言葉を知りました。
 そこに行けば、よき師・友がいて、仏法を聞くことができ、人格的に触れ合うことができる求道者の集いがありました。仏の光の前にお互いが、老若、男女、職業を超えて、赤裸々に照らされ照らし育てられる仲間の世界が実現されていました。サンガとは、仏法を学び実践するための集団のことです。お寺の元の形をたどれば、こんな仏法僧まします場から展開したのであろうと思われます。
 こうした聞法の歩みの中で、「仏の前なる生活」をしていますかと問われる時、自分は世間の目を気にして小賢しく生きているという「世間の前なる生活」をしていることを知らされます。常日頃は仏をないがしろにして、善悪、損得、勝ち負けを小賢しく計算しての社会生活の私です。
 親鸞聖人は性信御房への手紙に、善導大師の『般舟讃』から引用して、「『信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す』と釈したまへり。『居す』といふは、浄土に、信心のひとのこころつねにゐたりといふこころなり」(西聖典注釈版759、東聖典591、島地聖典21-4)と書かれています。聖人の作かどうか不明ですが「超世の悲願ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏の穢身はかわらねど 心は浄土に遊ぶなり(帖外和讃)」(島地聖典11-43)という歌も伝えられています。
 殻の中にいる自分を知らされ、念仏する存在へ導かれ、この身このままで南無阿弥陀仏と浄土のいのちを生きる者へと導かれるのです。随想「お彼岸に寄せて」2016年9月本願寺新報掲載
 絶対化していたものが相対化されるということで思い出されることがあります。別府市善正寺で開催している「歎異抄に聞く会」に時々参加してくれていた、九大名誉教授(医学。外科学)のT先生の発言が思い出されるのです(約10年ぐらい前でしょうか)。
 私の講義の中で人間の苦悩を救う方法について、『思い』と「現実」の差があることが苦である。つまり『思い通りにならない』という苦です。その苦を少なくする方法は(1)「現実」を「思い」の方に近づける。病気を治療によって健康に戻す方法です。もう一つ(2)仏教の悟り、信心をいただく世界で、私の「思い」が、「現実」を受容するという展開を起こして、差が縮小される。仏の智慧で老病死の現実を受容する世界が開けてきます。
 以上のような話をした後の質疑応答の時間に、T先生は、私はこれまで苦を救う方法は(1)の方法しかないと思っていました。今日初めて(2)の方法があるということを知らされました、と発言されたのです。
 これしかないと思っていた(絶対化)ことが、それ以外の発想があると気付く、自分の発想の相対化という事実が起こってくるのです(自我意識の執われから抜け出ることを「往生」と言う)。その働きを引き起こす仏智の世界を「浄土」と言うのです。浄土は仏の世界ですからこの世を超えた世界です。しかし、今、ここで、私に働いているのです。
 仏教における死とは、肉体の死のことではなく、自我意識の執われを離れることを意味しています。仏智に照らされ、傲慢な自我意識の存在が、「私は凡夫でした」と頭が下がって、念仏するところに信心をいただいた相(すがた)が現れています。
 仏の智慧のはたきが展開している世界、仏智のはたらきを部分的に感得できる味わいを、「心すでにつねに浄土に居す」、「心は浄土に遊ぶなり」と味わっている世界と受け取ることができます。

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