11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

親鸞聖人は「救い」を表わすのに「信心」の場合と「念仏」の場合があります。浄土真宗では「信心正因」ということが言われます。救いが定まるのは「信心一つ」ということです。「信心一つ」と言われる時の状況で、その内容は二つあると思われます。一つは、聖道門の諸行に対して、「信心ひとつ」の救いであるという場合です。もう一つは、大経の第18願文(註1)の中で、「至心・信楽・欲生」(呼びかけ、呼び覚まし、呼び戻す)の信心(仏の智慧で目覚め、気付くこと)と、「乃至十念」の称名では、あとの称名(念仏すること)のところで往生が決定するのではなく、信心を頂くときに往生が決定すると言うことです。
 浄土真宗の信心とは何か?………「唯信称文意」には、「信はうたがひなきこころなり、すなわちこれ真実の信心なり」(西聖典注釈版699、東聖典547)と示されています。…… 「うたがひなきこころ」即ち「無疑心」と、「真実の信心(真実心)」という言葉が示されています。
 信心を、「真実心」で言われるときは、信心の徳を表わします。法蔵菩薩の兆載永劫の修行で成し遂げた功徳です。如来がご自身の功徳の全てを「南無阿弥陀仏」の名に込めて、私の振り向けて下さいます。信心の行者(念仏者)の上には、すでに往生浄土するだけの功徳が具わっています(念仏の中に)。
 ご和讃に、「功徳は行者の身にみてり」(西聖典注釈版605、東聖典503)とか。「功徳の宝海みちみちて」(西聖典注釈版580、東聖典490)と言われるのは、このことでしょう。この功徳のことを指して、「如来からたまわる御信心」と、信心に「御」の字をつけられるのです。
 信心を「無疑心」で言われるときは、信心を頂いたすがた(相)をあらわします。信心とは、現に今私に届いてくださる「南無阿弥陀仏」の喚(よ)び声に対して、疑いの晴れたすがたを言います。
 善導大師は疑惑ということを言う時に、「疑い」というものと「慮り」というものと二つに分けられました。「疑い」とは、本当にそうなんだろうかと思うことである。盲目的に信じた場合は、この疑いはない。しかし心配はある。ひょっとしたら欺(だま)されているのと違うかな、ひょっとしたらというものがある。それを「慮」、「惑」という。人間は誰でもそういうものを持っていて、これはなくならない。
 智慧のないことを無明といいます。無明は心の底に疑いを持っていることで、疑惑ともいいます。人間はどれ程信じようと思っても、人間の心で信じ込もうとしても、必ず底の底には疑惑というものが残ります。(これは人間の理性知性の矜持で、人間の思考の健全性を示していると思われます)
 「疑い」は「あるか、ないか」という疑う心です。「阿弥陀様は本当にいらっしゃいますか」という心です。「阿弥陀様は本当にいらっしゃいますか、それともいないのか」、「私は救われるのか、救われないのか」このような二つの心が絶えず交互に出てくるすがたが、「疑い」です。これは、全ての宗教にも通ずるところの「疑い」です。この状態では不安な気持ちは無くなりません。
 その不安を払拭するために我々は、「こうに違いない」と確信しようとします。この信じ込み、思い込みを慮りという事ができます。「私は救われるに違いないと思いたい」。これが自力心なのです。この「疑い」「慮り」の二つの心がともに、阿弥陀さまに取られた状態(私においては無くなった)が、「信心」なのです。
 「信心」は、私の心を励まして出来上がるような心ではありません。よき師、よき友を通して、今届いてくださる「南無阿弥陀仏」に出遇うからこそ、いただける「心の姿」です。
 某国による拉致事件が問題になって久しいです。事件で家族が行方不明になってしまったとしてください。残された家族は、毎日いたたまれません。何か月も何年も連絡がとれません。心の中では、「子どもは生きているのか、もう亡くなってしまったのか」ということを毎日考えます。これはつらいことです。苦しくって仕方がありません。これが、子供の生存への「疑い」です。
 その状態がつらい時に、確信しようとする心(慮り)が出てきます。この事件で子供が行方不明になった親御さんは、「あの子は生きているに違いない。そう思い続けよう。あの子を待ってあげよう」と思われる(慮る)でしょう。親御さんにはそう考えようとする「確信」です。でも結局のところ、子供の生死は分からないままであり、本当の意味の安心はありません(慮りが残る)。
 当時の首相が外交交渉をして某国を訪問して数人を連れて帰って来たとい事がありました。当事者の親にとって、子供が目の前に現れたらどうでしょう。行方不明だった人が、「ただいま」と言って、目の前にいる。そこにはもう、生きているとかいないとかを考える必要はありません。本人が目の前にいるのですから、これが「疑いと慮りの晴れたすがた」です。
 我々の浄土真宗は私が救われるか、救われないかを論じる必要はありません。今、私の身に上に、「南無阿弥陀仏」と現れ出て下さる阿弥陀さまの喚(よ)び声に出遇う宗教です。そこにはもう、私の疑いは存在せず、大きな安心があります。それが「信心一つの救い」なのです。
 (仏の智慧に出遇う事で、仏を疑う私の分別の浅さ、狭さ、愚かさを徹底して知らされ、私を本当に大事にして、生かそうとする仏の心の圧倒的な大きさに、よき師・友、僧伽を通して触れるからです)
 本当の信は「無疑」、「無慮」であります。それを「疑いなく慮りなく」と善導大師は言われ、全部おまかせして何もあとに無いのです。
 ある人が私を自動車に乗せてくれた。信頼する人だから大丈夫と思う、しかし、ひょっとして、他の車がぶっつかってきて、事故を起こすかも知れんなと思う。すると何か心配が残る。こういうのを慮りという。そういうものをみんな持っている(実業の凡夫)。しかし、慮りが出てくると、「南無阿弥陀仏」と念仏する、念仏がその思いを切ってくれるのです。
註1:第18願文:設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆 誹謗正法
訓読:設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。
意訳:私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません 。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

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