12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

「死にゆく過程を生きる物語をどういただき、どう伝えるか」(1)

はじめに
 医療と仏教は同じ生老病死の四苦に取り組みながら、現在、日本の医療現場では協働、協力関係が十分に実現していません。
 約40年前、日本でもホスピス運動が始まり、それに刺激され仏教文化を背景とした「ビハーラ運動」が始まりました。しかし、医療界のビハーラ運動への認識は低く、大きな流れになっていません。
 医師、看護師は、科学的思考で教育を受けてきているために、老病死の受容の発想はなく、健康の状態に戻す「治療」という思考しかないような状態です。加齢現象や種々の疾病で食べることのできなくなった患者へ、経管栄養(経鼻、経胃)が実施され、生かされている患者は40万人とも言われています。

老病死の受容の困難性
 医療文化には、死の受容の発想がいために、「ピンピンコロリ運動」という標語が医療界で言われていました。元気なうちは「ピンピン」と働き、死ぬときは「コロリ」と長患いをしないようにとの願いを込めての標語です。
 東北大学で臨床宗教師を養成の講座を創るのに大きな貢献をされた岡部医師は、自身が胃がんになり、治癒不可能な進行癌の状態になった時、「死にく者の道しるべを失った日本の文化に驚いた」という発言をされています。そして臨床現場に宗教者の必要性を訴えられました。
 「死に往く過程」をどう生きるか。「死」という現実をどう受け止めて「生きるかが医学界で問題とされるようになってきています。

死を包括した医療
 2010年5月に医学界新聞(医学書院発行)に「第8回英国緩和ケア関連学会報告(2010年.3月)」として加藤恒夫医師が「緩和ケアをすべての疾患に拡大する、 医療における第3のパラダイムシフト 」と題する報告が掲載されました。特記すべき話題は「Good Deathを包括した公衆衛生的アプローチ」というものです。
 今までの医療が「死んでしまえばお終い」という死を拒否する姿勢から、「『よい死」を包括した医療へ」という方向転換をするという流れが欧米の医療界の中に出てきた、ということです。
 日本の医療界は老病死は本来の姿ではない、元気な健康な状態が本来の姿である、と治療する方向にだけ取り組んできたために、老・病・死を受容する文化を持つことがないままになっています。
 「死を包括した医療」は今までの医学の発想では担えない課題であると思われます。まさに「医療と仏教(宗教)の協力、協働」がはたらきを展開する機運が満ちてきたという時代性を感じます。

科学的合理思考の医学、看護学の問題点
 医学は人間の疾病を分析的に解明しては、治療をすることで大きな成果を上げてきましたが、高齢社会を迎え、寿命も天井に近づきつつあり、いやおうなく直面する「老病死をどう生きるか」が課題になっています。
 「死」に向かって「生きる」という思いだけでは、今後の高齢社会は魅力のある社会になりそうに思われません。哲学者のボーヴォワールは「老い」(1972年)の著書で「人間がその最後の15年ないし20年の間、もはや一個の廃品でしかないという事実は、我々の文明の挫折をはっきりと示している」と書いています。

医学界の注目される動向(全人的対応)
 物事を対象化して客観性を尊重する科学的思考は物事のカラクリ(how to)を解明することには大きな力を発揮してきました。その結果を Evidence Based Medicine (EBM、根拠に基づいた医療) として、不確実性の多い医療の中で、確かな治療法の確立に大きな貢献をしてきました。
 EBMは身体を部品(臓器)の集まりと認識して、再統合して人間を把握しようとします。しかし、意識や心、精神を持つ人間を全人的に把握しようとしてもできないことに気づくようになり、EBMを補完するものとして Narrative Based Medicine (NBM、物語に基づく医療)が提唱されるようになりました。患者の価値観、人生観、生死観を尊重する医療です。
 同じような全人的対応を指向した発想が出て来ています。Human Based Medicine (HBM)と名付け、EBMが「最大多数の最大幸福」をめざす医療だとすれば、HBMとは、「一人ひとりの、その人なりの幸せ」をめざす医療とされています。  Whole Person Care(WPC)と言われる考えもでてきています。カナダ、マギール大学医学部では1999年からWPCを基本においた教育を行っています。「単に病気を診断し治療を行うだけではなく、がんをはじめとする治療困難な病気とともに生きる人々に寄り添い、癒し人となり得る医療従事者を育てる」ことを宣言し、実践しているそうです。

生死を超える道として仏道
 四苦を超える道としての仏教は三世の救いを教えています。「死」への生ではなく、浄土への「生」を説く浄土教は、人間の無条件の救いを実現する教えです。
 仏の智慧の世界を知らされる者は「ものの背後に宿されている意味を感得する」ようになるでしょう。智慧の世界で「人間として生れた意味」、「生きる物語」、「死んで往くことの物語」に気づき知らされる者は、老・病・死を往生浄土の歩み、浄土への「生」として受け取るように導かれます。
 ある哲学者は、人間の思考を計算的思考と全体的(根源的)思考に分けています。医療人の専門教育は主に科学的合理思考、即ち計算的思考で訓練されてきたために専門領域の知識は豊富ですが、局所的であるという弱点を持っています。哲学的、宗教的な思考は全体的思考であります。それは「ものの言う声を聞く」「この現実は私になにを教えようとしているのか」というように思考するのです。
 宗教的叡智の世界を知らされる時、科学的思考の浅く、狭く、局所的で迷いを繰り返していることを気付かされます。そして智慧の「人間とは」「人生とは」の全体像を見透かした内容に触れる時、自分の知恵の分際に目覚め、仏の教えのごとく念仏して生きていこうと導かれるでしょう。(続く)

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