1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

あけましておめでとうございます。
 龍谷大学での仕事は今年が最後となりました。道を楽しむという感じなのか、九年目になる大分―京都往復生活を元気に勤めさせていただいています。与えられた役割を演じきれたかということは第3者の判断を仰ぐしかありませんが、改めて医療界での「医療と仏教の協働」への理解を進めることの大変さを感じています。日本全体の世俗化、科学的合理主義信仰に押し流されていることを感じることです。師の「遥か果上を期して、近く因行に励む」の言葉をいただきながら歩ませていただきます。
 ご指導、ご鞭撻をお願い申し上げます。合掌
2019年正月 田畑正久

「死にゆく過程を生きる物語をどういただき、どう伝えるか」(2)(先月の続き)

死にゆく過程を生きる
 虚無主義、快楽主義と個人主義が複雑に絡み合って形成されている人生観は「私の人生は一回だけで、死んだら終わり。だから、生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。私(だけ)が幸せになることが、人生の目的である。」となるでしょう。それに唯物的な科学的思考が、追い打ちをかけて「私たちの世界はすべて物質に還元でき、生命を構成する物質が集積したときに『生』があり、それらが分散したときに『死』がある、ただそれだけのことです。」となると生きることの意味は見い出すことはできません。現在、日本の多くの人はそのような思いを漠然としてではあるが持っていると思われます。まさに死に往く者の道しるべを失った文化状況です。
 浄土教は「死」への「生」ではなく、往生浄土の生き方を示し、具体的に南無阿弥陀仏、生死勤苦の本を抜く念仏の教えで、空過流転ではなく実りある人生を生ききる仏道を教えてくれています。
 臨床の現場で老・病・死に直面して患者から発せられる、いわゆるスピリチュアル・ペインは、「無条件の救い」を説く本願の教えを頂くことで気付かされる、「人間として生れた物語」、「生きることの物語」、「死んでいくことの物語」、そして「罪悪感からの解放」で救われる道が示されています。

根本問題の解決への道からの応用として臨床現場
 ある大学で「哲学する医師(医療者)を養成する」を教育の基本にうたっていましたが、覚える知識量の増大、資格試験合格に流され、基本は掛け声倒れになっている現状があります。
 一人の医師がアールマイティになる必要はないでしょう。自分の分際に気づき、他職種とチームを組んで、一人の悩める患者に寄り添って、苦悩から救う取り組みが望まれます。
 科学的合理思考は病気の治療に大きな発展をもたらしました。しかし、治癒不可能な「病」、生理的加齢現象と思われる「老・死」に対して、命の長さにとらわれた救命、延命対応は患者の苦悩を救うことになっているか疑わしい、かえって患者のQOL(生命、生活の質)を低下させることになっているように思われます。
 患者の人生観、価値観、生死観に寄り添いながら、対機説法のように相手の状況に配慮しながら、関係者の協議を重ね、QOLを高める方向への援助に努めることが願われます。生死勤苦の本を抜く智慧の視点がある時、全ての状況の患者への対応ができる広がりを持てるでしょう。

医療関係者、一般の人にどう伝えるか
 世俗化の流れの中ではあるが、仏教への理解を深めてもらう取り組みが願われます。特に死に日常的に接する医療関係者は「死」に対して個人的心情から虚無的になるのではなく、患者が死をどのように受け取っているかに関心を持ってもらいたい。自分の生死観を患者に適応するのではなく、患者に寄り添う医療では、人間(患者)はどのように「死」を受け取っているか、人類はどのように受け止めてきたのか。死をめぐる文化の蓄積はどうなっているかに関心を持ってもらうことが願われます。
 科学的思考は17世紀にはじまった思考法の一つであるが、成功体験が多く、信頼を勝ち得ています。仏教の「縁起の法」の思考と整合性があることが多いが、仏教の方が「人生を全体的に考える」という面では深く、大きな視点を持っていることに驚かされます。医療者に是非とも仏教の学びをお勧めしたい。
 患者の医学的全身管理を学び、実際技術的に実施する訓練を受けて、技術的可能であることを知る医師は、経験を重ねる中で、いつの間にか人間の全身管理をすることができるという傲慢さに陥りやすい。しかし、それは医学的管理であって、人間というものの全体像が分かった事ではないと謙虚であるべきだと思われます。
 生物学、医学での精神活動の解明はまだ始まったばかりであります。精神と身体とがどのような関係にあるかは、現代でもよく知られていません。部品(臓器)の再統合が人間全体の把握になってないことに医師も気づき始めています。
 仏の智慧に触れて、自分の相(すがた)を知らされ、智慧の視点の洞察力に驚きを持って目覚める者は、自分以上に仏の方が「人間とは」、「人生とは」ということを見透かしていることに気づくでしょう。仏智によって多くの因や縁に生かされていることに目覚める者は、智慧によって精一杯、未練なく生きることができ、自然と死を超えて仏へおまかせの世界が広がるでしょう。そこでは患者に関わる家族も医療者も関わりの中で、多くの学びと癒しをいただくことになるでしょう。
 人によっては、信頼する人から「必ず浄土に生まれて、また会える世界がある」と聞いて安心を得る事実もあります。浄土の教えは、豊かな味わいの死後観を我々に教えてくれていて、死んでゆく物語として「往生浄土の道」を教えてくれているのです。

まとめ
 仏は「人間とは?」「人生とは?」という全人的課題に、大きな、三世を貫く視点で我々のあり様を見抜かれています。我々を大悲する仏の心を知らされる時、仏の圧倒的な包容力を伴う念仏の教えに「お任せします」と死を超えていくのです。「死んでしまえばお終い」ではない、往生浄土して成仏する身に導かれ、無量なる本願海に摂取不捨されて、倶会一処の場を賜るのです。
 生死の課題に共に取り組む医療と仏教の協働が進展して、患者・家族・医療者が空過流転を超えて、「人間に生まれてよかった。生きてきてよかった」と実りある人生を共に歩むことが願われます。

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