2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

無の体験。
#1.沢庵禅師が残した話と伝えられている。
『法燈国師と一遍上人、 一遍上人が、紀州由良の興国寺の開山法燈国師に師事してゐた時の事である「歌を一首よみて候」といふと、「如何にあそばしたるぞ」と国師が問はれる。すると上人、
「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏の声ばかりして」
と吟んだ。これを聞いて国師は、「下の句を何とかなるまいか」と云われると、上人はさらばとやがて熊野に参籠して三七日思案した後、再び由良の国師の許に来て、「かくこそ詠みて候へ」とて、
「となふれば、仏もわれもなかりけり、南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」
国師はそれを聞いて、始めて、「それでよしよし」と長く肯(うべ)なはれたといふ事である。この事を大聖国師古嶽和尚はその語録の中に書いてゐる。』(悟り方暮し方p141沢庵和尚原著・伊藤康安著)
 この沢庵和尚の話は一遍上人語録とは違っている。語録では
『国師、此歌を聞き「未徹在」とのたまひければ、上人またかくよみて呈し給ひけるに、国師、手巾・薬籠を附属して、印可の信を表したまふとなん「となふれば……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」』
となっている。大体の本は皆一遍語録を採用していて、すぐ一遍詠み提示したと書いているが、沢庵禅師はそうは書いていない。
 人間の心境が簡単に進むことはない故に現在の境地を示した以上、引き下がり工夫努力したと見た沢庵和尚が正しい気がするが。
『印可を受けた翌年再び由良に来て法燈国師にまみえ、
「すてはてて身はなきものと思ひしに さむさきぬれば風ぞ身にしむ」
と詠み、始めて印可のしるしとして手巾と薬籠を与えられたという。又、「一遍上人年譜略」によれば、弘安十年四十九歳のとき、兵庫の宝満寺で遊行中の一遍は覚心に参禅しています。何故、一遍と法燈覚心の記録が「聖絵」や「絵詞伝」又、「法燈円明国師行実年譜」に記録されなかったか。傍系的なものは思い切って省略して書くのがその手法だったので、切捨てたのではないかと思われます。
 又、一遍が覚心にその悟境を示した和歌を求めると、覚心はその場で
「となふれば 仏もわれも なかりけり 裏のお池で 鴨がぢゃぶぢゃぶ」
と書いて渡したという話がある。』(一遍上人語録新講p308古川雅山著)
「となうればわれも仏もなかりけり池のかもめが浮きつ沈みつ」
「となうればわれも仏もなかりけり磯の鴎は波にそよそよ」
いずれにせよ、一遍上人の此歌は悟りの境地を表現する良き材料となった。
白隠禅師は念仏に対抗して禅者として悟りの境地を
「となへねば仏もわれもなかりけり それこそそれよ 南無阿弥陀仏」
となへねばとは、となえている事自体が神仏と離れている故に呼んでいるのである。親と一体になっていれば呼ぶ必要がない。
 相対の境地から絶対に入れば黒住宗忠の次の歌となる。
「すてぬればみだも我身もなかりける 天をも地をもつらぬきやせん」

#2.NHK宗教の時間より、「自己を知り仏となる」」東福寺僧堂師家:福島慶道、聞き手:有本忠男
有本:「無の自己」というのは、自分があって他人がある、というふうな相対的な考え方ではないわけですね。
  福島:ないですね。これは面白い話がありまして、分かり易い例でよく出しますのに、ここに触ると火傷(やけど)をする火があります。火鉢の火があるとします。そこへ手をもって行きますと、熱いからパッと退けるじゃないですか。そして多くの場合は、「熱ッ!」と言って退けるでしょう。あれ、既にもう知性的な煩いですよ。というのは、火は熱いものだ。水は冷たいものだ、ということを、どっかで知性的に教えられているわけですね。決して知性を否定するわけじゃないですよ、禅もですね。「しっかり勉強して来い」ということは禅でも言うわけです。知性を積んでおるから知性を捨てるということが初めて可能になるわけですね。知性を否定するわけではないんですが、その知性的な煩いで、火に触れて「熱ッ!」と手を退ける。ところがもうちょっと分析してみたらいいじゃないですかね。火に触れた瞬間に、パッと退けるあの体験ですよ。
 我々は、「生(なま)の体験」とこう言っている。あそこには実は自分はないですよ。それじゃ何にもないんか、と言うたら、この体験が、「生の体験」が現実にあるじゃありませんか。禅に実存があるとすれば、これこそ実存、禅の実存であり、そういうふうにこれはよく譬えで出すんですがね。
 アメリカであった話でありますがね、今は宗教学の教授になって、禅理解も深くなりましたが、まだ彼が大学院の頃に、J・マクダニエルという男でありましたが、私の毎週の坐禅会にやってきましたね。そして正規の坐禅が終わった後も深夜十二時まで、だからその水曜日の晩は、彼は私と一緒に四時間も坐禅をする。
 アメリカの学生としては、し過ぎるぐらい坐禅がよくできる熱心な男だった。その時にたまたまその日の禅トークの時にですね、私が、「今の火に触れるこの瞬間に自己はないじゃないか」という話をしましたら、そのJ・マクダニエルが―彼は実はその時にはヘーゲル(ドイツ古典哲学の最大の代表者)をしっかりやっている男でしょうね。頭が分析的だったんです。
 翌日レポート用紙三枚ぐらいに質問を書いてきたんです。その内容はこうなんですよ。「昨日の話はわからん。何故かと言ったら、まず自分ありきだと。主体である自分がある。それから触られる火の、客体として火がある。自分が火に触れるという行為をする。そこで初めて熱いという感覚が成立すると。我々はそう理解する」と、こういう。私は、「それは全然禅じゃないんだ」と。日本語だったら洒落(しゃれ)にもなりますが、英語では洒落にもなりませんが、やっぱりこれは何も外国人だけではなしに、日本人でもついぞそう考えてしまいます。やっぱり自分がまずあって、というところから、出発するものですから、生の体験を実は素通りしておるわけです。その「生の体験」を気付かしめよ、と。あの瞬間に自己はありませんよ。だから、なるほど、火に触れて、「熱ッ!」とこう言うでしょう。「熱ッ!」というところまではみな体験できるんですよ。その「熱ッ!」という体験のその即下(そっか)に、瞬間に自己がないぞ、ということを自覚したら、それが悟りなわけです。
 私は、修行僧によく提唱でいうんですけどね、「もうそんなつまらん見処―答えを持って来て、なんという修行をしておる。―道場では台所を「典座(てんぞ)」と言いますが―典座へ行って、煮えたぎっている油の中にギュッと手を入れて来い!」とこういうんです。入れた者なんかおりませんけどね。だけども入れて、みんな火傷するから熱いと思うでしょう。ところが熱いという体験だけではなしに、その「生の体験」の時に無の自己を自覚してほしいと、こういうことなんですね。

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