3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

仏の智慧の世界
#1.信心をいただく要領として、ある僧侶の言葉「掴んで、放して、向こうから」があります。掴んだ手を放せといわれても我々は放す、「お任せ」するができないのです。「放そう、放そうとするのも理知分別、自力の心です」
 仏教を勉強する時、仏教を知識的に分かって、悟り、信心の世界に行けると想定しがちです。そして学びの途中で、大きな頷きや、すっきりしたような体験をするかもしれません。それに関係して、禅では大悟と小悟があり、「大きな悟り18回、小さな悟り数を知れず」という言葉を聴いたことがあります。聞法の長い歩みの中で、いろいろな感動や喜び、気付きなどがあるでしょう。するとそういう大小の経験に執われがちになります。その執われを「放せ」と言うのです。
 ある日、眼の不自由な方が山道の崖の近くを歩いて、誤って、崖から滑り落ちてしまったそうです。しかし、運よく滑りながら崖に生えていた根のはった小枝をつかみ、命からがらぶら下がることができました。それでその人は必死に枝をつかみながら「助けてくれ」と大きな声で、叫んでいたら、崖の下の道をその辺りに住む農家の人が通りかかりました。しかし、その農家の人は、その叫んでいる人を見て不思議そうな顔をするのです。というのは、枝に掴まっている人は必死なのですが、実は、その人が掴まっている木の枝は地面からそんなに高くないところにあって、その人の足から地面までは30センチほどしか離れていないのです。つまり、手を放しさえすれば地面にポトンと落ちてポンと立てるくらいの距離なのです。ところが枝に掴まっている人は目が見えないものだから一生懸命に掴まっているのです。ですから、下にいる人は、「手を放せば楽になるぞ。あなたの足の裏と地面の間は30センチぐらいしかないよ。だから安心して手を放しなさい。そしたら助かりますよ」と言うのです。
 それを聞いた目の不自由な人は頭では、それを理解できますし、「分かった」と言って手を放そうとします。一,二,三.で手を放そうとするのですが、怖くてなかなか手が放せないのです。
 この人が救われるにはどうなることが大切でしょうか。この人は、農家の人の説明の声が信頼できないのでしょうか……。彼はくたびれて、とうとう疲れ果てて、「もう駄目だ」と手を放さざるを得なくなって、手を放したのです。手を放してみれば、ポンと地面に足がついたというのです。
 自力無効となって、手を放して見れば、「こんなところだったのか」ということに気が付くということです。「悟り」とか「信心」をいただくとは、「救われている」ことの気づきの世界かもしれません。
#2.「百尺竿頭(かんとう)に一歩を進む」ということわざがありますが、この言葉の元は、中国は唐代の禅僧、長沙景岑(ちょうさ けいしん)の言葉で、「無門関(むもんかん)」あるいは「景徳伝灯録(けいとくでんとうろく)」という禅籍に記述されてあるそうです。その原文は、
「百尺竿頭坐底人 雖ニ然得入一 未レ為レ真 百尺竿頭須進レ歩 十方世界現ニ全身一」
という漢文です。読み下してみると、
「百尺竿頭(かんとう)、坐底(ざてい)の人。然(しか)も得入(とくにゅう)すと雖(いえど)も、未(いま)だ真(しん)と為(な)さず。百尺竿頭、すべからく歩(ほ)を進めて、十方世界に全身を現(げん)ずべし」
「『百尺竿頭に坐する』とは、「これは悟った!」というところに座っていることです。しかし、そこに留まるのではなく、その悟りの世界からさらに一歩も二歩も前進することが大切です。そうすれば『十方世界に全身を現ず』となっていくでしょう。
 それは、100%完全燃焼するということです。『十方世界に全身を現ず』とは、悟って悟って、悟りの世界にも囚われない。もちろん、迷いの世界は超えているのです。自分勝手なけちな凡夫根性はもちろんない。悟り臭いものも持っていない。そういうものが全部なくなると100%完全燃焼する。悟りであろうと、どんな立派なものでもあろうと、それに執われるとそいつは不純なものだから、そいつは燃焼しない。そんなものが混じっていてはいけない。そうすると十方世界に全身を現ずることができる。そうすると、何をしても100%の仕事ができる。絶対価値の仕事ができる。そう言う人になるのが仏道修行の目標、禅の目標なのだそうです。百尺竿頭とは、三十三メートルの高さの竿の先っちょの頭のことである。古代の禅僧は、とてつもないことを言って修行僧に問答を仕掛ける。いやはや常人(じょうにん)の発想ではないのです。自分がその33mの竿の先に動かずにいることを・・・。 そして更に一歩を進めよ。とはどういうことなのか?  一歩を踏み出したならば、その竿頭から落ちてしまうことになる。まさに破天荒な問答だと思われます。
 ―実は―この「百尺竿頭」たる意味は、仏向上事(ぶっこうじょうじ)の境界のことをいう。つまり「悟り」の境界と、その修行の過程ということです。このことを、考察すると、百尺の竿頭たる高き頂きが、悟りの境界であるならばそこに至る仏向上が、百尺という長さであり高さということになります。即ち百尺という表現は修行そのものをいい、その道程をいうものであります。以上のことを前提として、先の漢文を解釈をしてみる。
「百尺の修行をして、竿頭に安坐し、悟りの境界にいる人は、まだ真(まこと)に悟った人とはいえない。本当に悟りを得た人は、更に一歩を進めて身を投げ出し十方世界に、自己の全体を実現するところにある」とのことであるということでしょう。この禅問答の教えるものは、 百尺たる修行に修行を重ね、悟りの世界に上りつめたとしても、そこに安住しているならば、それは本当の「悟りの境界」とはいえない。
 安住するとは、そこに執着し滯着(たいぢゃく)していることにほかならないからであった。故に、真の悟りとは、安住することなく、執着することなく、更に一歩を進め、身を投げ出し、自由無礙(むげ)なることが肝要なのだと説かれていると思われます。
 その身を投げ出し、落つる所はどこか?  それは、苦しみ悩める我々衆生の世界ということなのだ。それが「十方世界に全身を現ずべし」ということです。十方世界とは、あらゆる世界、あらゆる所という意味であり、そこにいる人々の為に、自己の仏向上の修行を具現し全ての人々を救うことが、本来の悟りということであるとのことです。
 気づいてみれば、時間的無量のつながり(宇宙の誕生や生命の連鎖)の中で、人間として、日本の平成の時代に生きている。生かされている。自分が一人で頑張ってきたように思うかもしれないが、多くの人や物(生物の命、水や空気等々)のお陰で生かされている。知らされて、気付いてみれば、有形、無形のはたらきの中で周囲に迷惑をかけながら、私の存在が忝(かたじけな)くも許されている(自分の勝手な思い)ことを思うのです、南無阿弥陀仏。生かされていることで果たす、私の役割、使命、仕事はなにか。

「 何のために この世に」(杉山平一の詩)
ものを取りに部屋に入って 何を取りに来たのか忘れて戻ることがある戻る途中で ハタと思い出すことがあるが その時はすばらしい身体が先に この世に出てしまったのである その用事が何であったかいつの日か 思い当たる時のある人は幸福であ思い出せぬまま 僕はすごすごあの世へ戻る

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