4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2560)

「一粒の豆」 (鈴木健二 『気くばりのすすめ』に収録されているというエピソード)
 交通事故でお父さんが亡くなり、小学校三年と一年の男の子、そしてお母さんが残された。この交通事故はどちらが被害者・加害者かの判定が難しかったが、最後には母子家庭側に加害者という決定が下された。
 加害者側とされた三人の全財産は売り払って被害者の補償に当てられた。その後見知らぬ土地を転々として暮らした。やがて落ち着いたのは農家の納屋。親切な農家が見るに見かねて貸してくれたのである。
 ムシロを敷いて、裸電球をつけ、小さなガスコンロとダンボール箱の食卓だったが、三人はとてもうれしかった。お母さんは、生活を支えるために朝6時に家を出、ビルの清掃、それから学校給食の手伝い、夜は料理屋で皿洗いと、身を粉にして働き、家に帰るのは深夜の11時、12時。必然的に家事をするのは長男ということになっていました。
 そんな生活が半年、8ヶ月、10ヶ月と続くうちに、身も心もクタクタになってしまい、やがて限界がやってきた。ロクに寝る時間もなく、生活は相変わらず苦しい。子供たちも可愛そうだ………。いつしかお母さんの頭には、いつも死ぬことばかりが思い浮かんできたのです。
 「これ以上働けない! 申しわけないけどお前たちをおいてお母さんは死にます」、こう決めたお母さんは、家事のすべてを引き受けてくれる小学校三年の長男に最後の手紙を書きました。
 「おにいちゃん、おなべに豆がひたしてあります。これを、今晩のおかずにしなさいね。豆がやわらかくなったら、おしょうゆを少し入れなさい。」その日も1日、くたびれきって深夜家に帰ってきたお母さんの手には、多量の睡眠薬が握られていた。そんなことはまったく知らない二人の子供たち……、ムシロの上に敷いた粗末な布団で枕を並べて眠っている兄弟の顔が見えました。よく見ると長男の枕のそばに「お母さんへ」と書いた、一通の手紙が置かれていた。
 「お母さん、ごめんなさい。ぼくいっしょうけんめい豆をにました。でも、しっぱいしました。夕食のとき、弟はしょっぱくて食べられないといって、ごはんに水をかけて食べたのです。お母さんごめんなさい。でもぼくを信じてください。ぼくは本当にいっしょうけんめいにたのです。
 お母さん、お願いです。ぼくのにた豆を一つぶだけ食べてください。お母さん、あしたの朝、もういちどぼくに豆のにかたをおしえてください。だからお母さん、明日の朝は、どんなに早くても構わないから、出かける前に必ず、僕を起こしてください。お母さんは今夜も疲れているでしょう。僕にはわかります。お母さんは僕たちのために働いているのですね。お母さんありがとう。でもお母さん、どうか体を大事にして下さい。ぼく先にねます。お母さん、おやすみなさい。」
 このお兄ちゃんの手紙を読んだお母さんの目に、どっと涙があふれました。「ああ、お兄ちゃんは、あんなにも小さいのに、こんなに一生懸命に生きてくれているんだ。」お母さんはそう言って、お兄ちゃんの煮たしょっぱい豆を、涙と一緒に一つ一つ押し頂いて食べたのです。お母さんの目から大粒の涙がとめどなく落ちました。大声で叫びたい気持ちをおさえて、お母さんは心の底からわが子にあやまったのである。「ああ、申しわけないことをした。お前がこんなに一生懸命生きているのに、お母さんは自殺しようとしている。申しわけない。ごめんね。お兄ちゃん。お母さん、もう一度頑張るからね」
 たまたま袋の中に、煮てない豆が一粒残っていた。お母さんはこの「一粒の豆」と長男の手紙をハンカチに包み、お守りにして肌身離さず持っていることにしたのである。
 それ以来、あの時のことを思えば、どんなことだって我慢ができるという、「一粒の豆」がお母さんの宝物になり、「一粒の豆」は、今もお母さんの懐(ふところ)深く大切に持ち続けられている。
 このエピソードから2種の決意を見ることができます。一つには、母親が子供たちの幸せを願って懸命に働こうとする決意です。尊い決意であるが成果が見えないと気力が廃れて続かなくなります。二つには、母親がお兄ちゃんの手紙を読み、願われている身であることを感得して、二度と自殺を考えまいとする決意です。この決意はどんな苦難にも立ち向かう力を発揮するでしょう。
 念仏は私を「憶念」の世界(仏や善き師・友の言葉を憶念する)に導き、その思いが続きます(念持)、そして「不忘」、忘れないようにせしめるのです。親鸞は、「(私の)願いを掛ける」信心を自力の信心、「(仏の)願いを受け取る」信心を他力の信心と、明確に区別します。願いは受け取り手があってこそ願いとして成就するのです。
 「10円で あれもこれもと 神頼み」、「拝む手の 10指それぞれ 欲を持ち」という川柳があるそうです。受け取り手のないような願いは、片思いのストーカ―信心であり、欲心(煩悩成就、自己中心主義)以外の何ものでもありません。むろん成就するはずもないでしょう。
 清沢満之(大谷大学初代学長)はその違い目を格言の言い換えによって明確にしています。世間一般には「人事を尽くして天命を待つ」というが、真宗門徒であれば、「天命に安んじて人事を尽くす」であるべきだ、といわれています。人事を尽くそうとして、条件の整わないことに愚痴を言う傾向の我々です。仏の智慧で、これが私に背負うべき現実と腹を決めて取り組むことを比べると、どちらが人事を尽くせるかが分かります。
 世間の知恵は「物の表面的な価値を計算する見方」、仏の智慧は「物事の背後に宿されている意味を感得する見方」というように教えられています。仏教では、私という存在と環境はピタリと「一」(一体の関係)の関係という(身土不二、依正不二)と教えています。私の自我意識は周囲の存在を3人称的(対象化、傍観者的)に眺めて(物や道具のように)、利用価値の有無、善悪で見がちであります。しかし、周囲の存在は私を「友よ!」と一体の関係で私を支え、教え、願い、生かし、目覚めさせようとしているのです。私の周囲の全ての「存在、事象の言う声を聞く」ことが人間としての哲学的、宗教的思索なのです。私の欲まみれの目は表面的な価値に振り回され、背後に宿されている世界が見えないのです、南無阿弥陀仏。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.