5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2561)

 病気のお見舞いに行った時の言葉かけの内容は、その人との日頃の人間関係が浅い、深いが露呈します。病気の治療に頑張っている人に、「頑張って下さい」という言葉かけは、既に頑張っている人には配慮のない言葉かけになると言います。
 我々の日頃の生活で発言する言葉にはその人の思いというか思想が表れます。そのことを表す仏教関係の言葉として蓮如上人御一代記聞書があります。

一 蓮如上人、仰せられ候う。「物をいえいえ」と、仰せられ候う。「物をいわぬ者は、おそろしき」と、仰せられ候う。「信不信、ともに、ただ、物をいえ」と、仰せられ候う。「物を申せば、心底もきこえ、また、人にもなおさるるなり。ただ、物を申せ」と、仰せられ候う由候う。(西聖典注釈版1259、東聖典871)

 法話の中で、病気のお見舞いに行って、かける言葉に困った時、一番無難な言葉は「お大事に」という言葉が良いということを聞いたことがあります。そのことで、最近の講義録で教えられる内容に出遇いました。

 お大事にという時の「大事」と言うのは、大変な出来事に私たちは出会っています。ということです。私たちがこうして生きているということは、「ああ大変だな、しんどいな、困ったな、意味がないな」という以上に本当は、非常に大事な出来事を一つ一ついただいて生きているのです。それがどんな形であれ、我が身に起る一コマ一コマを非常に大切な出来事として生きているのです。
 生きていることは「出来事」なのです。存在しているということは固定的にあるのではなく出来事、つまりはたらきとしてあることなのです。生きているということは、私がまず先に実態としてあって、はたらいているのではなく、その一瞬一瞬が貴重な出来事として私たちは「生きている」のです。
 貴重な出来事としてのわが身、そのことに気付きましょう、というのが、「お大事に」という呼びかけの本来の意味だと思います。

 仏教では、いろいろの存在や出来事は「縁起の法」に依ると言います。すなわち、ガンジス川の砂の数の、いろいろな「因」や「縁」が和合して、はたらき(「業」)が起こる。そのことで結「果」が展開する。その果が次なるものへ影響を及ぼす(「報」)と教えています。「因・縁・業・果・報」は仏教の基本的な目覚めの内容で、特に「ご縁」ということが仏教の特徴を示します。
 龍谷大学に数年前、農学部が新設されました。その農学関係の人から次のようなことを教えていただきました。農学と仏教に共通する食の考え方として、「食べ物に対する基本的な関心は、私は、農学と仏教では共通していると思います。人間の身体は、光合成ができません。つまり、太陽の光を浴びて、自立的に生きていくことができない存在です。自立的に生きられないので、光合成ができる植物か、植物を食べた草食動物をいただくしかない。そうして、われわれの身体はできているのです。光合成のできないわれわれは、生きていくためにどうしても必要なエネルギーを獲得するため、動物もしくは植物の命の、いずれかをいただかないことには、生きていくことができません。それによってようやく自分の命をつなぐことができる存在です。この事実から目をそらすことはできません。」当たり前、当然と思っていたことに光を当てて説明してもらうと、人間は殺生をしなければ、生きることはできないのです。自分が直接しなくても誰かが変わりにしてくれているのです。植物や動物のいのちを頂いているということは、それらの生命の犠牲(布施)のうえに成立している我々の生命です。申し訳ないことです。そのことから、小賢しく自分の生命を私有化して自分の勝手にしようとしがちな我々の理知分別の傲慢さが問われます。たまわった命です、「自分の生命は大事にしなければ……、粗末にできない」と言うことにつながります。
 かって、仏教の師からお聞きしたことに、我々は一番恩を被っていることに御礼をしてないということを言われて、「空気」や「水」をあげられました。我々の生命は水や空気、空気中の酸素なしには生きていけません。我々の生物学的生命の根ざしているところはこの地球全体、いや宇宙全体と言っていいのでしょう(身土不二、依正不二)。
 生物学的に人間として生まれて(5月の連休に1か月前に生まれた7人目の孫に会うために東京に行ってきました。親や多くの関係者のお世話なしには人間は育たないことを改めて目の当たりしました)、多くの人間関係の中で育てられるのです。地縁、血縁などの、うっとうしいと思われる人間関係でも我々は育てられていたのです。
 世間の知恵は「物の表面的な価値を計算する見方」と言います。日常生活ではことにあたって考えることは「善悪、損得、勝ち負け」などです、この思考なしには生きていけません。

 仏教の智慧は「物の背後に宿されている意味を感得する見方」と教えられています。表面的には分からないが、その背後に隠されている意味やいわれ、そして関係者のご苦労を知ることは、我々の生きる姿勢を正されることにつながるでしょう。私の為になされたご苦労を知る心を「ご恩」という。小賢しく振舞ってきて、いつの間にか当たりまえ、当然のこととしてしまっている、今の私の有り様は恩知らずの私です、南無阿弥陀仏。
 私の40歳代の頃、師より「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずることは、今までお育て頂いたことへの報恩行ですよ」という言葉をいただいた時の驚きは忘れることができません。師の教えに添うことはできてない私です。「申し訳ない、南無阿弥陀仏」と懺悔するしかありません。
 今、ここで直面している現実。この現実を生起した因や縁、その背後にあるものに目覚め、これが「私の背負うべき現実、南無阿弥陀仏」と受けとめ考える。そして私に期待されている役を実行する。これが私の果たすべき役割、それが私与えられた使命であり、仏からいただいた仕事です。一瞬一瞬を念仏して「大事に」受け止め決断して実行するのです。その一瞬の積み重ねが我々の人生でしょう。 「人生とは取り返しのつかない決断の連続である」ということばを聞いています。
 「お大事に」の言葉の背後に宿されている意味を考えて歩むことで、仏智に(無量光)に照らし出され、人生の広さ、深さ、温かさ、豊かさを教えられ、教化されていくのです。

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