6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2561)

 最近、かって仕事の仲間であった人が亡くなったとの連絡を受けました。その時思ったことは、日本人の平均寿命を考えると若かったなあ…。脳血管障害で寝たきり状態になっていたので、結果的には長患いをすることにはならなかったなあ…、という思いでした。
 その連絡を受けたとき、法話で以前に聞いたお話の内容が思い出されて、ある人に知人の死と法話の話をしました。
 (80歳過ぎの僧侶のお話から)「小学、中学の同窓会に行くと、人柄の良かった人、頭の良かった人、運動能力のあった人、などなど、善い人は皆、早く死んでしまった。残ったのは悪いやつばかりだ。長生きしてもう少し苦労をしなさい、人間としての修行が足りないということだろう。」と言うような内容です。
 するとその人は、うちの母は90歳を過ぎてまだ健在だ、母は悪い人だろうか…、と言われた。その人の母親は決して、世間でいう「悪い人」ではないことを知っていたので、ちょっと考えてみた。
 仏法の「法」は、道理とか法則というようなモノと理解しています。 【縁起の法】は【縁起の理法】ともいい、仏教の世界観を示す考え方で、 【空間縁起】と【時間縁起】という二つの考え方があります。
 【空間縁起】 これは人と人との関係において仏を通じた縁を肯定的に見ていこうとする考え方である。人と人の出会いや別れには偶然はないのだというのが空間縁起である。
 【時間縁起】 これは【因縁】、【因】というのは直接原因のこと。 【縁】というのは他者との関係における間接原因のこと。直接原因に間接原因が幾つか加わることで、働きが起こり(業)、そのことで結果が出現する。その果によっての報いがあるという考え方、これを【因縁業果報】という。
 仏教の特色として「縁」ということを大事にします。現代風に言えば、種々の条件の下でということになります。現代の科学的な思考形態と整合性が合うことに驚きをおぼえます。
 我々が生きているという生命現象は仏教では「生死一如」というように捉えます。曹洞宗の道元禅師の言葉に「生から死へと移るのではない―生より死にうつると心うるは、これあやまりなり―」というのがあります。仏教では、我々は様々な因や縁の集合体として存在していると見るのです。そして、生まれる前も、現在も死んだ後も何らかの因や縁の集合体という「在り方」をしていると考え、受けとめるのです。その過去や未来の存在様式はわれわれの思考を超えた在り方だと推測するしかありません。
 今、生きている「生」というのは一つの領域であって、一刹那一刹那ごとに初めと終わりで囲まれていて因縁の集合体として、生死一如として存在し、完結していると受け止めます。同じように死後の未来も、存在様式は因縁の集合体であり一刹那ごとに囲まれて完結して存在しているだろう、と考えるのです。そして、生きている間は生死一如の表の生の姿が露出している「生」だけの存在様式で存在しているように我々には見えます。死後は普通に考える身体的な死のあり方とは無関係です。死ねば生死一如の裏の死が表面に出る「死」だけの存在様式になっていくだろうと想像します、詳しくは我々にはイメージできません。生物学・医学での分子レベルでの生命現象の解明と、仏教の教える縁起の法の法則は内容的には矛盾はないと思われます。
 経験豊富な僧侶の上記の「良い人は早く死ぬ」という法話との関係はどうかと考えてみますと、「良い人は早く死んで、悪い人は長生きする」ということは「法」、道理、法則ではないと思います。この内容は仏法をいただく歩みから、知らされるというか、目覚めさせられる自覚的な「物語」と受け取ることができます。客観的に考えてゆく科学的思考では考えることのできない物語です。仏の智慧から知らせ、自分では納得できる、人間として「生まれた物語」、「生きていくことの物語」、「死んでゆくことの物語」です。
 仏教の教える物語は、仏教の智慧の世界への目覚め、気付き、悟りから自分なりに思われ、納得できる物語です。よき師、良き友の目覚め世界から讃嘆(仏の世界を感動をもってほめたたえる)される物語をいろいろ聞かせていただきながら、本当に「そうだなあ」と感得されれるように導かれるのです。一つの物語として、死んで往くことの物語を考えてみます。
 この世での仕事が終わったときに仏様のお迎えがくるという世界観なのです。この世での仕事が終わったということは,この世に生まれ出てきたことでの仕事が完結して,仏の浄土へ還っていった、という受け止めです。浄土で仏になって、また迷える私たちを救わんがために、南無阿弥陀仏という仏(方便法身)になって、私と一体となってお念仏となり、働いているという浄土真宗の受け取りがあるのです。
 両親の目の前で6歳の子どもが交通事故で亡くなった。そのお通夜を頼まれて僧侶が、お通夜の席でされた法話の記録があります。
 仏様の世界でのことです,今度生まれていくところは6歳で死ぬようになっているけれども,あなた,今だったら生まれて行く先を変えてもいいよと言ったところ,そこの子どもになる予定の存在が,「いや,私はよろこんで行かせていただきます。あのおじいさん,おばあさん,おとうさん,おかあさんのいるところに私は生まれていきます」といって生まれてきたのです。この世で家族として6年間の人生を生きて、いのちの真実を伝えんがための仏の仕事が終わって,このたび仏様の世界に帰っていったのです」。
 そのような内容の法話をされたそうです。そうしたところ,そのお父さんが「私の息子は仏の使いだったのですか」と僧侶に問いかけたそうです。なかなか現実を受け入れられませんでしたが、その法話をご縁として,お寺に縁ができて仏教の話を聞くようになったという。その後、その物語を受けとめるようになっていったというのです。
 6歳の息子の死を,「なぜ、死んだの」という嘆きに、医学的な、病名、病態を説明しても、答えにはなりません。「なぜ」という問いは how to ではなく why の「なぜ」なのです。子供の死をどう自分が受け止めるかという課題です。それは本人の納得というか、気づき、目覚めしかないと思われます。それに普遍性があるかどうかわからないけれど,この世に選んで私の子どもとして生まれてくれて,この世で家族として6年間を過ごし、いのちの真実ということを教えてくれて,また仏様の世界の帰っていった(往生浄土)。息子は菩薩様だったのだなあと受け止められるように転じていくという世界が仏教の世界です。
 普通の思考ではなかなか、理解しがたいでしょう。しかし、智慧の世界から気付かされる物語(ナラティブ)――人間に生まれたことの物語,生きていくことの物語,死んでいくことの物語――は科学的合理主義から生まれてこないのです。やはり哲学や宗教の文化からそれを受け止めていく物語が,気づき・めざめの内容として出てくる世界があるのです。その内容は押し付けできません。当事者の目覚めの内容としてそれが受け止められるか受け止められないか,ですから。

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