8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2561)

 一般の表現で、「宗教を信じるとか、信仰する」、という表現が普通になされていますが、私は仏教に出会う前は、その表現になんの疑問をも持ちませんでした。
 大学生の時、細川巌師に出遇い、浄土真宗のお育てを被るようになってから、上記の表現には宗教への偏った先入観が入っているように感じられるようになりました。師より「仏教への出発点においては『信じる』ことの必要はない」、と教えられましたし、「信心とは、仏の智慧を頂くことである」といただいて、そのことが納得できるからなのです。「人間とは?」「人生とは?」など含めて、いろいろな事象に出くわす時、自我の分別意識でしっかりと見つめ、考えることと、仏の智慧の視点で見て考えることを比べて、どちらが全体像を見ているかを考える時、仏の智慧での視点の方が、物事の全体像をよく見ていると頷けるようになるのでした。
 物事の判断を考えるとき、理知分別の表面的局所的視点と、仏の智慧による全体的な視点を考える時、物事を全体的に見通す視点を持つことによって、ものごとの判断もより適切になされると考えるようになります。その結果、自分の理知分別でしっかりと考えると同時に、仏の智慧の視点で、自分を含めた大局的な見方をするように心がけて念仏します。すると、分別の思考を当たり前と思っていたと視点が、相対化され、長所・短所が見えてきて、その分別の思いを翻して、分別を超えた仏の智慧の視点を拠り所に考えていこうと導かれます。
 常に両方の視点を行き来しながら、俯瞰(ふかん)的に全体像を見極め、納得のできる判断をするように心がけるのです。その結果、仏の智慧の視点を大事にしています、という表現になり、対外的には「仏教を信じています」という表現になるのです。自我意識の分別の愚かさを智慧(無量光)によって照らし破られる、という過程をへての上の事なのです。
 仏法に出遇うまでは、傍観者としての人生を考えていたように思われます。小賢しく考えて、世間的に上手に立ち回り、世間的幸福を手に入れて、できれば社会的に認められるような世俗的幸福を漠然とイメージして生きていたように思われます。ある仏教学者が、そんな考えを整理して教え、示してくれています。 「この理知分別の考え方は虚無主義、快楽主義と個人主義が複雑に絡み合って形成されている人生観です。それは、 『私の人生は一回だけで、死んだら終わり。だから、生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。私(だけ)が幸せになることが、人生の目的である』 ということになります。 生きる、生きていることに意味を見出せないけれど、生きていかざるをえないので、その基準を、最も生きている実感を得られやすい、個人の快楽に求めようというわけです。 いつも楽しく過ごしたい、それが幸せというものであれば、人生の最後は必然的に不幸せです。幸せになろうとして、幸せを未来に求めるというのであれば、現在はつねに不幸せな状態だとなる。幸せを求めれば求めるほど不幸せになる、という悪循環に陥ってしまいます」、と仏教学者は指摘します。そして、この人生観の中に、極端なエゴイストから理想主義のヒューマニズムまですべて含まれる、と言うのです。この考え方に唯物的な近代科学の見方が、追い打ちをかけます。 「私たちの世界はすべて物質に還元でき、生命を構成する物質が集積したときに生≠ェ有り、それらが分散したときに死≠ェある、ただそれだけのことです。生きている≠アとに意味はありません。生きている≠アと自体に意味がないのに、その質(生命の質)を問う意味はありません」
 この様な私たちを見透かして、大悲される物語が法蔵菩薩の神話的なご苦労の物語です。
 その法蔵菩薩のご苦労の神話的物語が次から次へと菩薩のような人を誕生させてきたのが浄土教の歴史です。物語を自分の事として受け止め、仏の智慧に順じて、「仏へお任せします」と執われから解き放たれた生き方の人を具体的に誕生せしめてきたということです
 菩薩のような人とは、その人の生き方は、いろいろな現実に直面しながらも、時代が悪かった、あの人が協力してくれなかった、などと他へ責任転嫁や愚痴は言わずに、「これが私の引き受けるべき現実、南無阿弥陀仏」と受け止め、精一杯に、与えられた場、境遇を生きる姿を示される人です。
 西本願寺の徳永一道師は、「信とはゆだねること」といわれ、次のようなエピソードを紹介しています。
 「あるとき、宗祖の「信心」は弥陀の大悲に自らのすべてを「ゆだねる」だと話したら、ドイツの女性から「なぜ信ずることがゆだねることなのか?」と訊かれたことがある。答えにつまった私は、彼女が抱いているマリアという赤ちゃんがスヤスヤと眠っていることに気づいて、何気なく「マリアに訊いてみたら?」と言ったら、彼女はそのしぐさと表情で、私が言ったことを十分に理解したことを示した。マリアが何の心配もなく眠っていられたのは、母親である彼女の胸に抱かれていたからである」。与えられた種々の条件の中を「随所に主たれ」という禅語のように、赤ちゃんは赤ちゃんに成り切って生きるのです。
 キリスト教の人たちの信心をあらわした文章も教えられます。以下に示します。
 「ネコ型、サル型、それとも….」 北森嘉蔵という神学者は人が救われるパターンを「ネコ型」と「サル型」に二分しました。子猫危険が迫っても何もせず、親猫が首を咥えて運ぶに任せています。自分では何の努力もせず、ただ神様の業に委ね切るというのがネコ型です。
  一方、子猿は危険が迫ると精いっぱいの努力をして、木によじ登って難を逃れようとします。自分にできる最大限の努力をして救われようとするのがサル型。
 棚村重行という神学者は、これに「コアラ型」を追加しました。危険が迫ると、親コアラが子供コアラを背中に乗せ、子供コアラが必死にしがみついた状態で退避します。子ネコのように、親ネコに無自覚なまま運ばれるのではなくて、子供コアラも親にしがつみつくという「ささやかな努力」をしている訳です。
私は、これらに加えて「ヒツジ型」があると思います。子羊は、弱くてたどたどしい歩みですが何とか自分の足で歩くのです。但し、自分一人で歩くのではなくて、羊飼い(主イエス)と共に歩くのです。主イエスの歩まれる方へ、主イエスの声と杖に従って歩くのです。そして歩けなくなった時には、主イエスが抱いて歩いてくださることを信じて歩くのです。さて、あなたはどの型でしょうか。
 仏教では、自分の現在の有り様が「迷い」であり、「迷い」を超えて「悟り」、「目覚め」を目指すのです。自分のことは自分が一番よく知っている、と言いたいのですが、ある坊守さんが、よき師との出遇いを実感を込めて「私よりも、私のことをご存知の方がいた。私より私を愛そうとする方がいた」と表現されています。仏の教えで、自分になりきる道が、精一杯生きる道だと教えていただきます。それが死をも超える道に通じているのです。

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