10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2561)

 歎異抄第2章に「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せ、そらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申す旨、またもってむなしかるべからず候か」 の文章があります。
 仏教の師は、「弥陀の本願まことにおわしまさば、」を最初は「弥陀の本願まことにおわします、されば、」と講義をされていました。その心は、「弥陀の本願まことにおわします」というのは原点だと思っていたし、原点であり、それは動かせないと考えていた、といわれます。
 その後、ある人から「仮定の表現ではないか」と質問をされて、考えてみられたという。その後、藤秀翠先生が一人、「もし仮に弥陀の本願がまことにおわしましたならば釈尊の説教が虚言のはずはない」とされているの気付かれたそうです。
 この問答は、はるばる関東から京都の親鸞聖人を訪ねてきて問うている人への応答であります。関東の人は「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべいという念仏の道が本当かどうか」に迷っていたのです。親鸞の長男、善鸞が言う、「そういうのは間違い、18願はしぼんだ花だ。もう少し正しい教えがある」、と、言うことがあって、関東のお弟子の人たちに混乱が起こっていたのです。
 そこで親鸞聖人が「皆さん、迷ってはいけません、弥陀の本願はまことにおわします。これだけは動かせないのじゃ」と言ったら、みんなは頭を下げて、そうだ、やっぱりそうだったのかと言って、表面上はめでたし、めでたしと納得することになるであろう。 しかしながら、その結果、親鸞さんの言葉にぶら下がる人が出てくるであろう。我々は権威や、尊敬する人の言葉に従いやすいということがあります。
 その後、師は肯定ではなく、仮定であろうと受け取り方を変更されました。そして弥陀の本願がまことかどうかは、私たち一人ひとりが確認しなければならない課題なのだ、と講義されるようになったのです。
 「念仏成仏これ真宗」というのは、私たちが断定的にそれを肯定し、その通りを信じ込むことが浄土真宗ではない。浄土はまだ仮定だ。これを本当に頂かなければならない、と教えていただきました。
 上記の事を考えるのに参考にしていただく文章を添えます。『偽物である自分に気付く』

(「仏教はなぜ真実と言えるのか? 」雑誌「在家仏教」2006年11月号掲載の私の講演録より、一部修正)

 少し前にネパールで偽一万円札が見つかったというニュースがありました。 その報道によれば、 ネパールの人たちは本物の日本の一万円札を知らないから、 それが偽札かどうかがはっきりしないのだ、 と言っていました。 本物があって初めて偽札が分かるわけです。 ですから本物が分からない人に偽札なんて分かるはずないのです。
 私は仏教をいただく時に、「仏教はなぜ真実と言えるのか?」 ということの一つの納得のしかた、 うなずきとして、 この私が偽物であることに気づかせるものが、 本物だと思うわけです。
 私はこれまで科学的合理主義思考を拠りどころにして「みんなから善い人間だと思われたい。 悪い人間だと思われたくない。 出来るだけ損をしないように、 得になるように。 出来るだけ負けにならないように、 勝ちの方に」 と言うように一生懸命分別して社会生活をしてきました。
 しかし、それを作家の高史明先生は「対象化する知恵は迷いである」 「わたしたちは生きていると思っていますけれども、 その偽の知恵に、 真実の生のありようを見失っているわけです。 ……死んでいるということがわからないのですから、 生きているということがわかるはずがありません。」 と教えてくれています (『在家佛教』 2002年12月号 「いま、 真実のいのちを深く頂く」)。
 その言葉によって、私の偽の姿を言い当てられるわけです。 そして地獄、 餓鬼、 畜生を百年生きても、 お念仏の世界が分からなくて百年生きても、 本当のお念仏の世界が分かって一日生きることに比べたら大したことないのですよ、とおっしゃるのです。
 私たちの生きているいのちは、生まれてから死ぬという有限のいのちを生きています。 キリスト教で言う 「生きているうちに死んだ人は死ぬ時に死なない」 という言葉は、 仏教で言うならば、 有限のいのちを生きていた者が、 無量寿の世界に通じる世界を持ち、「仏のいのち」という世界に触れる時に、死を超える世界を頂く。 ですから 「百年生きるに勝る一日」 とは、 今、今日、ここに仏様のいのちと通じる世界を頂いた者は、 今、今日、ここで質的な永遠という世界を生きる存在たらしめられるのです。
 念仏申さんと思い立つ心の発る時すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」 (『歎異抄』第一章) というのは、 永遠という世界を今、今日、ここで頂くという世界があるのだということです。
 そうしますと、百年生きるに勝る一日、 今、 今日という世界を、 私たちは今、今日、ここで頂く、そういう世界が、仏教の信心とか悟りの世界なのでありましょう。

真なるものが実(じつ)になる

 本物の仏教に出会うことによって、私の偽物の姿を気づかされます。 もし気づかなかったならば、勝った負けた、損だ得だ、善だ悪だと振り回されて、この世間の表層をのたうち回るしかなかったでしょう。 仏教ではこれを空過流転と呼ぶのです。
 空過流転しかない生き方をしていた者が、仏法に出会うことによって本当に実(みの)りある人生を今、生きつつありますといった時に、実りあるとは 「ここに実っている、知足という心です」 ということです。 真なるものが実となったということで、 真実の教えであったと言えるのです。
 私たちにはどうしても「あなたは仏教が分かっていますね」 とか 「真如を頂いていますね」 などと、権威付けしてもらいたい一面があります。しかし仏教では誰もお墨付きをくれません。 これは自分が自分の人生の中で 「本当に実りある人生であった。 よかった」 と本当にうなずけていけるかどうかにかかっているわけです。
 大無量寿経で「十方衆生よ」 と言って、 「皆さん方」 という言い方をされておりますが、 頂く側はすべて私一人のためです。 「親鸞一人がためなりけり」 であったのです。 自分が出会うことによって 「本当に良かったなあ」 と言ってほのぼのと生きてゆける、 そういう世界があった時に、真なるものが実となったと言って私たちは喜んで生きてゆけるのではないでしょうか。
 私たち一人ひとりが自分の人生の中で仏教に出遇うによって、空過流転を超えて 「実りある人生であった」 と言って生きているか、 一人ひとりが、仏教が真実かどうかの証明をしてゆかざるを得ないわけです。 誰もお墨付けや保証をしてくれません。 自分の人生で本当に「良かった、 出遇えて良かった、 お念仏一つで事足りた」と頂けることが、 私たち一人ひとりに課せられた使命・仕事ではないかと思うのです。
 「弥陀の本願まことにおわします」ということを私たちは自分の人生の歩みの中で実感することが仏の心(浄土)に触れることになるのでしょう。「人間として生れてよかった。生きてきてよかった、南無阿弥陀仏」は仏の世界の味わいの表現ということができます。
註;仏教の言う十悪。身による悪(殺生 生きものの生命を奪う。偸盗 与えられていない他人の財物を取る。邪婬)口による悪(妄語 嘘をつく。綺語 無益なことを言う。おべんちゃらを言う。悪口 他人を傷つける言葉。両舌 他人の仲を裂く言葉)。意(心)による悪 (慳貪 財物などをむさぼり求める。 瞋恚 いかり憎む。 邪見 誤った見解)。

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