11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2561)

 信心(目覚め)は、阿弥陀仏の本願の廻向に目覚めたということです。気付いた時点、今、現在から思索する。信心の深まりと共に時間も拡がっていく。自分の相(すがた)に深く目覚めると、自分の頑固さ、執念深いあり方は、この世に誕生してから身に蓄えてきたぐらいの浅いものでない。もっともっと根の深いものだ、その根の深さは後天的というよりも、過去世からのものも含んでいるに違いない(生命38億年の連鎖の最先端の、現在の私)ということになる。
 現在の私をありのままに知ることが出来るのは、過去世までさかのぼって初めて明らかになるということでしょう。今、仏智によって照らされ、照らし破られる時、自身の記憶にない過去世が浮かび上がってくる。仏の光に照らされて自分の相(すがた)が「迷いを繰り返してきた」と気付かされる。善導大師は「自らが業識」と表現した。注釈版聖典には「迷いの主体」と説明されている。
 現在(今生)の自身に目覚め、過去世(前生)の自身が浮かび上がってくれば、いやでも未来世(来生)のあり方も明らかになる。信心の時間の流れは、常に「今ですよ」から始まる。すなわち現在世⇒過去世⇒未来世となるのを「信心縁起」という。兵庫県農民詩人の村上志染の詩に「方向」というのがあります。

「濁れる水辺  方一尺の天地、 水馬(みずすまし)しきりに円を描きける 汝 いずこより来たり いずれに旅をせんとするかヘイ、 忙しおましてナー」

 我々の空過流転の姿を示しています。ある僧侶が「お寺にお参りに来られませんか。よいお話をされる先生が来られますよ」と門徒に声をかけたら、「食べるために仕事が忙しくて、お寺に参る時間がありません」と答えたとの対話が思い出された。世間ごとに振り回されている私です。法然は13歳から43歳まで、親鸞は9歳から29歳まで、救いの道に出遇えず迷いを繰り返された。その学びの結果、善い縁に恵まれ、良き師に出遇い、浄土の教えによって、生きていく方向性を知らされてコペルニクス的転回を遂げられた。
 仏道の歩みを教える経典の中に「入初地品」という所があります。その内容に、
「入」は正しく道を行ずるがゆえに、名づけて「入」とす。この心をもって初地に入るを「歓喜地」と名づく、と。(東聖典162、西聖典注釈版147)
 があります。初地は、菩薩の修道の第一段階のことで、仏道に最初の一歩を踏み出した時に大きな喜びがあるという意味で初地を「歓喜地」と名づけるわけで、その道を踏み外すことがないというのが不退転ということになります。「入初地品」の最後のところに、次のような問答があり、続けて引用されています。

問うて曰わく、初地、何がゆえぞ名づけて「歓喜」とするや。答えて曰わく、初果の究竟(くきょう)して涅槃に至ることを得るがごとし。菩薩この地を得れば、心常に歓喜多し。

 初地を歓喜地となづけるのは、「初地に到達すれば、最終的に涅槃に続く道に入ったことを意味しているから歓喜が大きいのだと、まず答える。そして次に譬喩を使って、歓喜の大きさを説明する「大海分取の譬喩」とよばれる所が続きます。
 本来の十住毘婆沙論の文章は、
「(如以一毛為百分以一分毛分取大海水若二三H苦已滅如大海水余未滅者。如二三H心大歓喜)」(『十住毘婆沙論』) であり、その読みは、「一毛を以つて百分と為して、一分の毛をもって大海の水若しは二三Hを分け取るが如く、苦の已に滅せる者は大海の水のごとし。余のいまだ滅せざる者は二三Hの如く心大いに歓喜す。」です。
 ところが親鸞聖人は次のように読み替えているのです。
「一毛をもって百分となして、一分の毛をもって大海の水を分かち取るがごときは、二三Hの苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。二三Hのごとき心、大きに歓喜せん。」
 大意は、一本の髪の毛を百等分して、その百分の一の髪の毛で大きな海の水、それは、人間の苦をあらわすのだが、それを分け取ろうとする。「滅した苦は大海の水ほどになり、まだ滅していない残りの苦はわずか二・三滴であると。
 ようやくそこまで達した時、はかりしれないほどの大きな喜びがある。これがこの譬喩の元々の意味です。これはわかりやすい譬喩です。我々も、しなければならない仕事があったとしたとき、仕事のほとんどが終わる位まで来ると、もうすぐ終わると自然と喜びが出てきます。
 しかし、親鸞聖人の訓(よ)みかたでは、「二三Hの苦すでに滅せんがごとし。」と、二・三滴を汲み終ったところになる。つまり苦はまだ二・三滴ほどしか滅していなくて、「大海の水は余の未だ滅せざる者のごとし。」であるので、苦はまだほとんど残っている状態である。ところが、たった二・三滴しか苦が滅していないのに「二三Hのごとき心、大きに歓喜せん。」となっています。苦の解決はつかず、まだほとんど全部残っているのに、汲みだした二・三滴ほどのところで心が大歓喜だと、そういう譬えに変わっています。
 私たちは自分の苦や迷いに直面すると、すぐには落ち込み暗くなります。また気を取り直して「明けぬ夜はない」と明るい未来を目指して生きていこうとします。一方パスカルはパンセの中で、私たち人間は「明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞ、と死ぬまで幸せになる準備ばっかりして終わる」という我々の生き方の問題点を指摘しています。
 仏教と名の着くものの基本は転迷開悟です。「迷い」による苦の解決です。私たちは自分の迷いは大したことは無い、きっと未来に何とか解決がつく、理知分別の思考を総動員して努力することができるのが人間だ、それを目指して生きることが我々の在り方だと楽天的に思っています。
 そういう我々、人間存在の在り方を仏の目で見透かして「汝は凡夫なり」(観経、西聖典注釈版93、東聖典95、註1。)と言われています。
 仏の智慧、無量の光に照らされて自分の姿に気づくことが大切です。自分は迷ってないと思っている人には仏教の用はありません。人間の誇る自我意識の背後に潜む闇、理性・知性の分別の思考に潜む闇を聞法を通して知らされてくると、迷いという人間の在り方は「「水馬(みずすまし)がしきりに円を描いている」ように、その道行はエンドレスです。迷いを何年、一生懸命に繰り返しても、迷いには変わりません。過去からの生命連鎖の最先端にいる私、何億年迷ってきたのでしょうか。仏教でいう六道輪廻の迷いを繰り返している私(客観的事実というよりは目覚めの深まりから知らされる内容)。仏の智慧によって自我意識が照らし破られないことには迷いの連鎖の繰り返しです。弘法大師の道歌、「生まれ、生まれて 生まれて、生の始めに暗く、死に、死に、死に至して 死の終わりに冥し」はそのことを示しています。
 迷いを超える方向性がはっきりすることは、救いを決定的にする要因なのです。その為に親鸞聖人は苦を解決する方向が定まった、水を二・三滴ほど汲みだしたところ、方向性が定まったところで心に大歓喜が満ちると表現しているのです。
 師の言葉、「人生を結論とせず、人生に結論を求めず、人生を往生浄土の縁として生きる、これを浄土真宗という」がありますが、往生浄土の方向性が定まることが救いの決定的要因だと教えられます。
註1。汝はこれ凡夫なり。心想羸劣(しんそうるいれつ)にして未(いま)だ天眼(てんげん)を得ず、遠く観ることあたわず。諸仏如来は異の方便ましまして、汝をして見ることを得しめたまう。(あなたはまさに凡夫である。心が劣り、智慧の眼が開かれていないから、はるか遠くを観ることはできない。ただ、諸仏如来にさまざまな手だてがあるからこそ、あなたも仏の世界に触れることができるのである。)

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