12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2561)

 医療界で、お産の前後を周産期という。それにあやかって、死の前後を周死期と言う言葉が使われ出しています。周死期を考えるにあたって深く考えさせられる事例を紹介します。

資料1.『ナンナさんのお心の中に』宮森忠利、崇信;第499号、2012年7月1日発行「巻頭言」
 友人と『清沢満之語録』(岩波文庫)の読書会を行っている。その中で、「生死以外ニ霊存スル」とはどういうことなのかが問いとなり、話し合った。清沢先生は、「吾人(ゴジン)ハ死スルモ尚(ナ)ホ吾人ハ滅セス。生ノミガ吾人ニアラス、死モ亦(マタ)吾人ナリ (略) 吾人(ゴジン)ハ生死以外ニ霊存スルモノナリ」)(清沢満之全集第8巻392頁)と述べておられる。その時、私は祖母が娘(私の叔母)のことを記した一文(『美知子の遺言』)が思い起こされた。その叔母は14歳で亡くなったのだが、病の床について、祖母に「母さん読んで」と、「仏教聖典」を読むことを求めた。
 ある日のこと、「母ちゃん、母ちゃん、わたし死んでもなくまっしゃるな」「何でね」「わたし死んでも、体無いがになっても、たましいは死なんがや。そんで、何時までも、何時までもナンナさんのお心の中に生かされていくのだから、いつも母ちゃんと一緒に居るのだから、泣くまっしゃるな」
と語った。それも一度ではなく、「日に日に衰えていく優しい声で、毎日一度、60日」言ってくれた。祖母はその言葉に、「こんな大事なお言葉が、どこからどうして出て参るのかと、ただただ驚いた」という。
 美知子叔母さんは死を覚悟し、恐れおののいたのだと思う。その時、唯一心に染みるのは、親鸞聖人の教え(「真宗聖典」)であった。そして、「ナムアミダブツ」と念仏申し、アミダの心にふれたのだ。私は「ナンナさんのお心と一つになって生きている。一つになって生きていく」。
 どんなものもそのまま慈しむ消えることなき真実の世界、真実の心にふれたのだ。「母ちゃん、母ちゃん、泣くまっしゃるな」とはなんと深い慈悲の心であろうか。祖母は娘が亡くなり、五十年後にこの文を記したのだが、その文を 「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ。いつまでたっても私を離れず、まもって育てて居てくれます。(略)亡き美知子は、仏が私を済度にみえられたのだと、拝ましていただいております」 と結んでいる。

資料2.西原佑冶著「脱常識のすすめ」(探究社刊)のなかに、門徒Aさんとの出来事を掲載しています。
 「Aさんは、6歳の愛児を交通事故で亡くしました。ご両親の目の前での事故、ご親族の悲嘆にはかける言葉がありませんでした。お通夜の席のことです。浄土真宗では、お通夜の読経の後、法話をすることになっています。何をお話ししても、ご両親の悲しみの慰(なぐさ)めにならない状況でした。その時、ふと何かの雑誌で読んだ話を思い出し、その話をさせていただきました。『B君が、まだ自然のふところに包まれているときのことだそうです。今度生まれることになっている子供の寿命は、6年しかないことを知った仏様が、B君に語りかけたそうです。《B 君や、今度生まれることになっている子供の寿命は、6年しかないから、もっと長い寿命をもった人の上に生まれてはどうか》。
 その時B君が仏様にこう言ったそうです。《仏様、ぼくはたとえ6年間であっても、あの父さんと、あのお母さんと、そしておばあちゃんと、あのおじいちゃんと、そしてあの家族のいる家に生まれたい。そして6年間仏様のお仕事のお手伝いをしてきます》。
 そして月が満ちて、この世に誕生して6年間、仏様のお仕事をして還って往かれた』その仏様のお仕事とはなんであったかを聞いていくということが供養ということです。控え室に戻ってしばらくすると、ご両親が挨拶に来られました。目には涙をいっぱいためておられます。そしてご主人が声に力を入れて言われました。≪ ありがとうございました。Bが浮かばれます。仏さまと受け取ります ≫。
 その後、この夫婦は、仏教(阿弥陀如来)とのご縁を強くもたれるようになりました。法話会がある日には会社を休み、一番前で聴聞し、仏教書や法話の録音に耳を傾ける。今まで当たり前と思っていたことが、大変な価値のあることであったと、人生観が一変したと言います。
 車の中で、仏さまの話を聞きながら、「こんな世界もあったのか」と涙したとも聞きます。3カ月ほど経ったある日のこと。一緒にお茶を飲んでいると、「あの子は、何が大切かを教えにきてくれた仏さまかもしれません」ともいわれました。

資料3.宿題(お母さん) 弓削小学校六年 中村 良子 (平成3年)
今日の宿題は つらかった  今までで いちばんつらい宿題だった
一行書いては なみだがあふれた  一行書いては なみだが流れた
「宿題は,お母さんの詩です。」先生は  そう言ってから  「良子さん。」と 私を呼ばれた
「つらい宿題だと思うけど がんばって書いてきてね。お母さんの思い出と しっかり向き合ってみて。」
「お母さん」 と 一行書いたら お母さんの笑った顔が浮かんだ
「お母さん」 と もうひとつ書いたら ピンクのブラウスのお母さんが見えた
「おかあさん」 と言ってみたら 「りょうこちゃん」と お母さんの声がした
「おかあさん」 と もういちど言ってみたけど もう 何も 聞こえなかった
がんばって がんばって 書いたけれど お母さんの詩はできなかった
一行書いては なみだがあふれた  一行読んでは なみだが流れた
今日の宿題は つらかった 今まででいちばんつらい宿題だった
でも 「お母さん」 と いっぱい書いて お母さんに会えた
「お母さん。」 と いっぱい呼んで お母さんと話せた
宿題をしていた間 私にも お母さんがいた

資料4.増田進医師(「沢内村(岩手県)奮戦記―住民の生命を守る村 」1983 等で有名)との私信の一部
 あれは古い病院の頃でしたから昭和40年代の後半です。患者は50歳代の女性でした。隣接する秋田県の病院で横行結腸癌の手術を受け、沢内病院へ紹介され自宅療養となったのでした。
 患者さんは元気になると頑張っていたのでしたが、ふとしたことで夫婦が口論になった時、ご主人が「お前はガンでもう治らないんだ」と言ったことがきっかけで、彼女は地獄の思いに落ちたのでした。往診していた私は「本当にガンか、今まで隠していたのか、治療はしているのか」と責められました。私はありのままを話し、抗がん剤を使っていることなどを説明しましたが納得したように見えても元気が失われました。
 やがて病状が悪化し入院しました。彼女は「目を開ければ鬼が来る、目をつぶれば地獄が見える」と訴えられたものでした。その時、近くの病室にいたおばあさんが彼女の枕元に繁く通ってくるようになりました。そして「死ぬのは怖くないよ。お念仏を称えなさい」と繰り返し言うのです。そのうち彼女はおばあさんのいうとおりお念仏を称えるようになりました。やがて彼女は落ち着き表情も穏やかになってきました。笑顔も見られるようになって私たちもほっとしたものでした。そして安らかに永眠(往生浄土)したのです。
 そのことを当時の村長に「村長さん(お東の僧侶)よりすごい宗教者がおられましたよ」と話した記憶があります。田舎で長く暮らしていますと、ここの人々の生死に対する達観といいますか素直さを感じ、私はよく「街の人たちはかなわないね」と言ったものでした。本当に尊敬する村人がいたものです。(2015年)

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