1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2561)

謹賀新年。今年も、ご教導のほどをお願い申し上げます。合掌  田畑正久
 仏教の学びは、大学生の時ご縁ができてからはじめて47年になります。師や僧伽に導かれ聞法を継続することが出来ています。続くのは時々の感動があり、教えの深さ、広さを知らされ、生きて行く力を恵まれたり、生きる方向性に目覚め、そして師や友との対話によって勇気をいただくなど、諸仏に守られてきたからだと思われます。
 最近、あらためて仏教というのはこういうものだったんだなあーとの納得を、講演録(梶原敬一口講述、「いのちのゆくえ」福乗寺法話会記録、2012年)から感じることがありました。
 普段の日常生活は、世間の仕事の課題を次から次へとこなして、ふと気づくと一日の終わりが近いということになりがちです。今日の行動の80%は昨日とほぼ同じことの繰り返しの内容だと聞いたことがあります。そんな生活の中で、難しい課題に出会ったり、人間関係で摩擦に直面したり、生きる意欲を失わせる事象が発生したり、想定外(?)の老病死が露呈したりする時、「生きることの意味あるのか」「生きがいは何か」「生きる方向性は?」「どう処していけばよいのか」「死んだらお終いなのか」などが問題となります。
 そういう問題に直面した場合に、人間存在のあるがままの有り様、本来性、自然な在り様に目覚め、自分の生きていることをどう実感して、どう生きることがあるべき自然な在り方かということを確かめてきたのが仏教だと教えられました。
 仏法の基本は常に自分を照らす鏡である。縁起の法の教えるように、私と私を取り巻く環境は身土不二というようにぴったりと「一」である。あるがままをあるがままに生きる、そこに精一杯生きる道、完全燃焼の道、未練のない自体満足(存在の満足)の世界が広がる、そして、その一瞬一瞬が完結しているのです。仏の智慧で自分がここに生きているという事の背後に宿されている意味を感得すれば、存在自体が「在ること難し」のありがたさを感じ、そして育てられてきた、生かされてきた、支えられてきた、願われてきたことのご縁を感得して、自然と報恩行としての種々の行動(役割、使命、仕事など)に私を駆動せしめるでしょう。
 私達は、縁起の法によると「世間の中を生きる」だけでなく、「私達は世間を生きている」ことになります。世間には器世間と衆生世間があります。世間というのは、私達が生きていることの関係を表します。
 器世間といったら山であったり川であったり自然のもの、水であったり空気であったり、私達が生きているその環境を表します。衆生世間というにはそこで生きて出遇っている命と命の関係です。様々な命(植物、動物、人など)との出遇いを衆生世間といい、それを生きています。それはただ生きているのではなくて、受用(じゅゆう)しているのです(註)。受用(じゅゆう)というと、用(はたら)きを受けることを表します。
【註:用という字は「ゆう」と「よう」の二つの読み方があります。「よう」という時には「もちいる」という。用事をするとかの「よう」です。「ゆう」というときには、用(はたら)きです。作用という時にこの字を書きます。作用(さよう)と読みます。けどこれは用(はたら)きの事です。】
 世間を生きる事を受用(じゅゆう)するといいます。どういう事かと言うと、水を飲んだり空気を吸ったりしてそのことが、私自身の身体を作っていくということ。私が生きていることは様々なものを外からの受け取ってそれを自分自身の命(血や肉)としてそこに生きているということを受用(じゅゆう)と言います。水を飲んだり動植物を食べたり空気を吸ったりということで生きることができているのは確かですけれど、それだけではありません。ものを見たり、音を聞いたり、様々な声を聞いたり、教育を受けたり、関係性を生きたり……して、それが私自身を作っているということを受用(じゅゆう)といいます。だから生きるというのは「世間を生きる」ということができます。
 この世を他と無関係に生きているわけじゃなくて、世間によって作られているというのが私自身です。その世間によって作られているということに依って顕かにされたものは、それは私自身が私というだけではなくて、この世界と命を分け持ちながら生きているという事に外なりません。だから私という存在は私であるけれども、私を作っているこの世界も私です。さらにもって言えば、器世間として言われている分だけじゃなくて、衆生世間として言われて人と人との関係の中であっても、自分と繋がって生きている人も皆私です。
 もう少し説明すると、私の人生に影響を与えた(有形、無形)ものがあります。「あの師の言葉が私の中に生きている。」「育った家庭の雰囲気が我々の中に生きている。」「あの人の教えが、私に大きなはたらきをしている。」というように。
 その人達からの用(はたら)きを「ここ」の「今」というところに結びつけていくものこそが「私の身体」という事です。この身体が生命というものの形をとっていますけど、この身体は、器世間、衆生世間として表現されるものが、私というものに用(はたら)いて一つとなった。そのときに世間が身になるのです。世間が私という身を作っていくために、私そのものに用(はたら)かなければなりません。
 そこに世間と身とのあるがままの関係性、真実の関係性に気づかせる働きを如来というのです。如来とは何かというと、如より私に来るという意味の言葉です。いつもいつもいのちといのちの間につながりを持たせるもの、関係を作らせるもの、関係に目覚めさせるものが如来なのでしょう。
 仏教学者の中村元によれば、「タターガタ」(tath?gata)とは本来、「そのように行きし者」「あのように立派な行いをした人」という語義であり、古代インド当時の諸宗教全般で「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味する語であって、「如来」という漢訳表現には「人々を救うためにかくのごとく来たりし者」という意味がひそんでいて、真如の道に乗じ、因より果に来たって、正覚を成ずるから「如来」と名づけたようです。
 仏教に縁の少ない現代人の世界観の発想は、「私が生まれるに先だって“宇宙世界という空間があった”,その中の地球に,たまたま生まれて来た。そこには過去・現在・未来と連続する時間が流れている。その時間、空間の中に何十年か、生活して、やがて死んでいく。死んでいくときは私一人である。私が死んで『我』は消滅する。その後、依然として世界は存続し続け、残された人の生活はそのまま続けられていくだろう」、である。これは唯物論的科学思考の所産です。
 そして、「私の人生は一回だけで、死んだら終わり。だから、生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。私【だけ】が幸せになることが、人生の目的である」。生きることにほとんど意味を見出せないけれど、生きていかざるを得ないので、その基準を、最も生きている実感を得られやすい、個人の快楽に求めようというわけです。程度の差はあれ、虚無主義と快楽主義と個人主義が複雑に絡みあいながら形成されている世界観、人生観と思われます。
 元気で順調に行っている間は、忙しさに振り回され、立ち止まることもせず、前記のような世界観で日常生活の流れに押し流されています。しかし、想定外の事象、具体的な病に直面すると慌てふためくのです。
 直腸がんを経験した某医学部教授はその経験を次のように記しています。「病名を告げられた後、予定の取り消し等、切ない、つらい、そして喪失感、苛立ちに悩まされる。生活が音を立てて壊れて行き、絶望感で一杯。癌という病名への衝撃、それを否定したい否認、自分だけが何故癌だという疎外感、見るもの全てが怒りの対象であるような怒りの感情、それに抑うつが入り乱れて、絶え間なく台風のように襲ってくる。入院生活は毎日大勢の見舞いがこられ、日中は賑やかなものでありましたが、心の中は空虚で孤独感に悩まされた。退院後は慢性の抑うつ、世界観が変わり、生活にも弾みが出てこなくなる感情。一人の患者として真に求めているものは “心のやすらぎ” “精神的なやすらぎ” “生き甲斐のある人生” であると思いました。そして癌という病気を通して「生きる」ことの意味を考えさせられています。」
 私たちは生きていると思っていますけども、自分がここに存在すると言ったって、無我無常の私の存在が本当にあるとはどういうことかと考えると、中々分らないものです。一旦自分が生きている事に行き詰まっ時、何故生きなければならんのかと、生きるとは何かという事を徹底的に問い始めると、私が生きているとは何か分からなくなります。
 そういう時に仏教は人間存在の真実の有り様に目覚めさせ、存在の背後に宿ざれている意味や物語に気付かせる世界、浄土へと導くのです。法蔵菩薩の本願に報いてできた報土(浄土)にて迷いによる苦悩の本を抜く智慧を仏教は教えるのです。そして迷いを超える道を歩んでゆく、生きる勇気を頂くのです。

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