2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2561)
我々が普通の思考で生きることを考えると、私は理性知性分別でしっかりと考えて「幸福」を目指して生きて行こうとします。しかし、生きていく上で必ず直面するのが老病死です。分別で考えると「老い」よりは「若くて元気」が良い、プラス価値です。病気よりは健康である方が良い、プラス価値です。そして生きていてこそ「華だ」、死んでしまえばお終い、と分別して判断します。
人間の考える幸福の状態を示すのが仏教のいう「天国」です。仏教では「天国」は六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天界)の一つです。そこは人間の願い事がかなった世界(有頂天など)です。しかし、依然として迷いの世界です。人間の理想とする憧れの世界です。天国の住人には天女がいます、天女の姿はいろいろな絵に描かれていますから見た記憶はあるでしょう。一つ質問ですが、年を取ったおばあちゃんの天女を見たことはありますか? ないでしょう。天国の女性は、老病がなく、18歳ぐらいの若さで年を取らないようです。しかし、天人五衰と死はまぬがれないそうです。
自分の周りに幸福のためのプラス価値を集めて行くことが人生だと思っている人がほとんどでないでしょうか。健康で、体力の若さを維持して、経済的安定、社会的に評価され立場、温かい家庭、良い人間関係等、快適な住環境等々を自分の手元に……。しかし、人間という存在は老病死を避けられません。
私の受け持ちの患者が81歳の時、自死未遂事件を起こして入院しました、大事に至らず回復して退院しました。その後、私の外来診察に来られた時、話の中で「先生!、私なんか役位に立たない。皆に迷惑をかける。姨捨山に捨てられてしかるべきなのに……、あんときあのまま眠りたかった!」と言われたのです。老病死は分別ではマイナスのマイナスのマイナスですから「不幸の完成で人生を終わる」と仏教者が発言しています。「幸福」を目指しながら、どうして「不幸の完成」になってしまうのでしょう?
日本人一億二千万人はすべて「不幸の完成」で人生を終わるのですよ…、こんな国は素晴らしい国と言えるでしょうか。フランスの哲学者が「人生の最後の15年、20年を廃品だと思わせる文明は挫折している証明だ」とその著「老い」に書かれていました。
我々の理知分別の思考のどこに問題があるのでしょう?
「私」が「幸福」を目指して「生きる」、を分析的に考えて思考してみます。
主語の「私」に関して、仏教では「縁起の法」に沿って、固定した「私」という存在はなく、無我、無常であると指摘します。例えば、日本語で「風が吹いている」と表現しますが、風に吹いているものと、吹いていないものがあるでしょうか。空気が移動しているさまを風というように、「吹いているのを風」というのが正確です。仏教的には「作用、はたらきの中に主語が立ち上がる」と言われています。空気の吹いているのを風というのです。
因縁和合して働き、作用、行動、動きが発生するのでしょう。無我というあり方は、現代風に言えばシステムのようなものと理解するとよいように思われます。いろいろな因や縁が集まって私が現象(無我という有り様)として存在しているのです、そして無常というように常に変化しているのです。いろいろな因や縁で反応して動くあり方です、しいて言えば「行動の様式」、「決断の仕方」、「判断の仕組み」と言えるようなものでしょうか。
「そんなことを言っても現にここに私がいるではないか」という声が聞こえてきます。現代の日本人はデカルト的に「われ思う、故に我あり」という実感を持っての発言です。縁起の法でいうと現象は一刹那ごとに生滅を繰り返している。その一瞬一瞬で完結している、だから非連続の連続という表現をしています。でもちょっと長い時間で見ると変化していることは認めるでしょう。お互いに年を取って身体の変化(老化現象)が身に染みて頷けるでしょう。
生物学的には、生物学者の福岡伸一氏は我々の生命の在り方を「動的平衡」と言って、固定したものではなく「流れ」「はたらき」という表現で言っています。仏教風に言えば、私という固定した存在はない、無我、無常だというのです。無我だから私の物というような所有物はない、所有物というようなものも偶々のご縁で私と縁があるように見えている存在です。縁次第で変化していく無常の存在です。
煩悩に汚染された自我意識はしっかりした「私」があり、わが物、安定した変わらない物(お金、土地、家、金など)があって欲しいのです。そして、あると思って、私の周囲にプラス価値を集めて幸福感を得ようとして努力します。しかし、一時的な満足感はあっても必ず壊れていきます。不自然な在り方、非本来的な在り方は、それを推し進めてゆく時、種々の摩擦や軋みを必ず生じ、自然な在り方や本来的な在り方へ戻されるのです。あるがままがあるがままです。自分の思いや好みで作り上げたものの在り方が、あるがままに正されてゆくのです、その働きを如来と言うことはできないでしょうか。
我々が人間として生れて生きてゆく時、我々の内部に秘めている遺伝子も因縁の一つです。生まれてからの種々の環境も因縁の一つでしょう。生物進化の過程で男女の性別が分化した頃から、生物に必然として具わったものが老・病・死という事です。私の中の遺伝情報を構成しているものの一つの発現が老・病・死ということです。老・病・死は分別で対象化して、善悪、損得、勝ち負けのように評価するような対象物ではなく、私を構成している、私と一体の存在(内部に必然として抱え持っている)だという事です。右手で右手を叩くことはできないようなものです。遺伝情報なくして私は存在しないのです。
因縁和合して今、ここに、一刹那生滅を繰り返している存在(現象としての主体、無我)しているように見える在り方の中に主語が立ち上がる。生きている相(すがた)の中に主語(私?、無我)がある、立ち上がったように見えるのです。
私は分別をしっかりはたらかせてプラス価値を集め、マイナス価値を少なくしてゆく、「幸福」を目指して生きる結果、老病死につかまって「不幸の完成」で終わるという在り方の迷いの姿が見えてきたのではありませんか。仏教と名の付くもの(聖道門、浄土門ともに)の内容の基本は転迷開悟です。迷いの存在の在り様に目覚め(悟り)て仏の智慧の中を生きて行くのが仏教ということでしょう。
因縁の和合の一刹那に、入手できる情報を総合的に判断して、善かれと思われる方向へ生きる方向の決断をするのです。脳科学的にも仏教的にも「人生とは取り返しのつかない決断の連続」である。念仏して思考、決断、行動の中に「仏の前なる生活」が展開するでしょう。精一杯、未練なく生き切って往く道に導かれ、仏を憑(たの)む、お任せの往生浄土の世界が展開するでしょう。南無阿弥陀仏。 |