3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2561)

 動物の中で最も未熟で生まれるのが人ではないでしょうか。その為に育てられる必要があります。育てられる環境や育ち方はその人間形成(成長・成熟)に大きな影響を及ぼすことが考えらます。「人は最初から人ではなく、人間に育てられるのです」という趣旨の言葉を聞いたことがあります。
「人はみな、育てられて育つ」(中央大学,心理学部 鯨岡峻)という講題の講演録に出合いました。その一部を紹介します。(以下は引用文)
 一人で生まれ,一人で育つ人はいません.人はみな,両親から命を引き継いでこの世に生まれ,周囲によって育てられて育ちます.見方を替えれば,子どもの成長の初期には,常に養育してくれる家族との関係を生きなければならないということです.ところが,その家族の生の営みは,お互いに幸せを目指して共に生きるにもかかわらず,葛藤を孕んだ,幸せから不幸せまでのスペクトラムのあいだを揺れ動く営みです.なぜ,私たちは家族の一員としてみな幸せを目指しているのに,その葛藤から解き放たれないのでしょうか。
 そのように問いを立てるとき,そこには人間という存在が本来抱えている自己の内部矛盾という問題と,人間の生涯過程が「育てられる者」から「育てる者」に移行する中で家族関係が営まれるという問題に行き着きます.私はそれを大きく「関係発達」という概念で掬い取ろうとしていますが,この概念の柱をなす考えを紹介してみたいと思います。
 家族など身近な間柄にある人と人の関係は,自分が主体であるように関わる相手も主体であるという奇妙に振れた関係です.そもそも人間は,一方ではどこまでも自分を貫き,「自分は自分」「私は私」を貫きたい存在です.しかし他方で,人間は常に誰かと繋がってこそ,幸せや安心を感じ,それゆえ常に他者を求めずにはおかない存在です.私が私であるためには,あなたに私を認めてもらう必要があり,あなたに依存しなければなりません.しかし,これと同じことが関わる相手の側にも起こっているのです。
 このことはつまり,私という主体が内部に自己矛盾を抱えていること,そしてそれは私ばかりでなく,あなたもそうだということを意味します。
 「私は私」というように自分を貫くことに向かう傾向を「自己充実欲求」といい、中心に向かうベクトルで表します。また相手を尊重し,相手とよい関係を築くことに向かう傾向「繋合希求性」は外に向かうベクトルで表現します.この両方のベクトルが逆向きになっているところに,人間が自己矛盾を抱えていることが表現されています.私もこうした自己矛盾を抱えた主体ですが,あなたもそうなのです。
 そういう主体と主体が関係をもつ時,それが親子の関係であれ,男女の関係であれ,あるいは夫婦の関係や「保育するーされる」「教育するーされる」「看護するーされる」という関係であれ,あらゆる人と人の関係は,それぞれが自己矛盾を抱えているところから,まさに文字通りの喜怒哀楽が生まれずにはおかない関係だということが見えてきます.そこに,幸せから不幸せまでのスペクトラムが生まれてくる理由があります(中略)。
 私は,大人の「育てる」という営みと,子どもが「育つ」という事実とを,常に「育てる育てられる」という関係において考え,この関係そのものが時間軸の中で変容するという事実に着目してきました.これが「関係発達」という考え方の出所だといってもよいと思います.ここから,従来とは異なる新しい発達観が導かれます.要約すれば,各世代の生涯過程が「育てる一育てられる」という関係の中で同時進行し,しかも世代間で循環していくということです。(引用終り)
 講演録を読みながら、家庭、地域社会、学校、職場等々の人間関係で我々は育てられるという事を強く思いました。チンパンジーが隔離されて育つと自我意識の発達が悪いという事を聞いていたので、関係性の大事さを改めて思ったことです。
 仏教では育つ方向性を考える時、動物的な「ヒト」から「人間」へ。そして「人間」から「仏」になるという物語を教えようとしていることに驚きます。一応、成人式で一人前の大人と社会では認めるようになっています。我々は本当に大人、人間に成れているのでしょうか。20歳を越えれば身体的には立派な「大人」「人間」になっているはずですが……。
 仏教では六道輪廻と言って私たちの心のあり様を「天界、人間、(修羅)、畜生、餓鬼、地獄」と表します。人間という間柄を考えることができる存在です。人間から六道を超える道、声聞・縁覚(自覚)、菩薩(自覚覚他)、仏(自覚覚他覚行窮満)に展開があると言われています。
 地獄、餓鬼、畜生的な存在から人間へ、そして菩薩、仏へ育てられるのが浄土教と受け取っています。生物学的な成長・成熟は、ガンジス川の砂ほどの無数の自然物、動植物、等々に生かされ、支えられていることは理解していたが人間関係、社会環境によって育てられていることを改めて思うと同時に、私自身が70歳に近づこうという年齢になって、「歎異抄に聞く会」などで講義(法話?)をさせていただいていますが、まだまだ育てられなければならない私、学ぶことの多い私と思う事です。
 最近、病から学ぶという事で読んだ記事を紹介します。「女性の末期がんの患者にお話をしてもらった」(同朋新聞2018.2.1.対談:金森俊朗元小学校教師
 授業で彼女は「病気になって初めて分かったことは、自分が生きていると思っていたけれども、実はたくさんの人に生かされていたんだ。それに気づいた」といことを話してくれました。当の本人から聞くという時、言葉に意味があるというより、目の前に座って語っている生きざまの風景、現場そのものが子どもたちの心に刻まれると思いました。
 私たちは自他の老・病・死から何を学ぶことができるか。これは決して私的な問題ではなく、人類の普遍的な課題です。精神医学者フランクルは、強制収容所における凄絶な体験記録『夜と霧』のなかで、つぎのようにいっている。
 “人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。” 私は問われている。直面する老・病・死に私はどう答えていくか、どう向かって生きてゆくか、が問われているのです。
 日野原重明氏は晩年、「いただいた命という時間を人のために捧げ、未知なる自分と向き合い、自己発見を続けること」が新たな目標と語っています。死去から2か月後に出版された「生きていくあなたへ」の中には「苦悩が大きいほど、大きな自己発見がある」とも著されています。

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