5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2562)

 本尊(ほんぞん)とは、一般の人々には、仏教寺院や仏壇などに最も大切な信仰の対象として安置される仏像・経典・仏塔、お守りとして身辺に常時携帯されるもの、仏や菩薩などの彫刻・絵画・曼荼羅(まんだら)・名号などをいう、と理解されているようです。
 浄土真宗では本尊と言われるものに阿弥陀仏の木造、絵像、名号があり、名号には六字名号(南無阿弥陀仏)、九字名号(南無不可思議光如来)、十字名号(帰命尽十方無碍光如来)があります。南無阿弥陀仏の意味を表すように訳されたのが九字、十字名号です。本尊とは最も尊いものという意味ですが、本尊を手間暇かけて作るという事を考えると、名号より絵像、絵像よりは木造に価値があるように考えます。しかし、蓮如上人は御一代聞書の中で「他流には『名号よりは絵像、絵像よりは木像』というなり」「当流には『木像よりは絵像、絵像よりは名号』というなり」(69)(西聖典注釈版1253、東聖典868、島地聖典30-11)とあります。
 「南無阿弥陀仏」と名前となった仏さんを方便法身(仏の世界より、我々の世界に仏の心を分かりやすく伝えようとして現れた仏)と言います。それは迷える凡夫に仏の智慧の世界を届けたいという本願を立てられて、長い間思考して「南無阿弥陀仏」という名前となって衆生に与えようとされている仏さんということです。何故「南無阿弥陀仏」を本願、選択本願(最も尊いもの)として選ばれたのかという質問に法然上人は「仏意、はかり難し」(仏の心は凡夫の私にはわかりません)と答えられています。
 南無阿弥陀仏が「本尊」、すなわち最も、根本的に尊いと言われても私たちには容易には理解できません。しいて説明するとするならば、「この世の存在の全てに尊いものを見いだす智慧を我々に届ける言葉となった仏さんだからです」、という心なのです。
 現代風にその心(尊いものを見出す)の表現を集めて見ると、(1)「我(自己)以外皆師」、全ての存在は私に何かを教える存在(菩薩、仏)です。(2)学ぶ姿勢さえあれば、全ても存在は学びの対象となる(松下幸之助)。(3)身土不二と表現して、私の身と、土、私を取り巻く存在、環境は私の身と一体の関係で私を生かし、支え、教え、目覚めさせる存在です。即ち、この存在、事象は私に何を教えようとしているのかと受け取るのです。(4)人生から何かを取り込もうとするのではなく、人生(老・病・死を含めて)は私に何を演じさせようとしているか、と受けとめる(フランクル)。(5)眼 明かなれば 途(みち)に触れて 皆宝なり(性霊集、弘法大師空海)、(6)「ものの言う声を聞く」(ハイデェッカ―)という思索をする(この現実、事件は私になにを教えようとしているか)、と受け止めていくのです。
 連如上人の御一代聞書の文として、上人のお弟子の法敬坊の言葉が伝えられています。 「法敬申され候う。とうとぶ人よりとうとがる人ぞとうとかりける、と。」 (西聖典注釈版1313、東聖典902、島地聖典30-379(法敬坊が「尊いお方であると尊ばれる人よりは、尊いお方だと尊ぶ人が、かえって尊く思われる) と申されたところが、蓮如上人が「面白きことをいうよ、もっとものことを申され候う」 (おもしろいことをいうたものである。いかにも道理のあることを、法敬坊は申された)といわれたそうです。
 尊い人も大事ですが、尊いお方であると見える目は、分別を超えた世界に同感している視点です。仏教が分かる、分からない、ということよりも 「 仏教を頂いて、救われている人を感得する目があるか、どうかが大切だ 」 ということを最近、聞きました。救われている人を感得するのは自分の思いかもしれないが、自分を超えたもの、仏のはたらきの現れです。
 多くの宗教者を育てた安田理深先生は、「人間は偉いものではない尊いものです」と言われました。「偉いもの」とは比べて優劣・勝ち負け・役立つ立たない、という価値の評価であります。「尊いもの」とは、比較して価値を判断する必要がなく、存在それ自体が尊いもの、と受けとめられる眼であります。
 何故人間の存在それ自体が尊いのでしょうか。それは私たち全ての者が、阿弥陀仏から斉しく救いたいと深く願いをかけられているからであります。この阿弥陀仏の願いを聞き、願いが受けとめられるところに、「人間は尊いもの」と目覚めて、孤独から解放され、優劣、勝ち負け、役立つ役立たない評価を問題とせず、あるがままに賜わったいのちを精一杯に生きることができるのであります。「人間存在は尊いものである」との価値観は、今、現代社会において人間に対して最も必要な眼差しであると思います。
 週刊誌的ですが現代日本人が本尊(大切)だと思っているものは、世論調査では1番が健康、2番がお金、3番が家族と出ていました。世間のモノサシではそうかもしれませんが、必ず失せるものです。仏教はそういう迷い(大切だと思っていても、必ず無くなる)の視点を超える世界を教えています。仏教の教えるものの見方は、「あるがままを あるがままに見る」世界、同時に、そのものの背後に宿されている世界をも感得する見方です。見るにあたっても、私達のように傍観者(3人称的に見る)のように見るのではなく、2人称的に見るというのです。
 仏教でいう「尊い」とは、相対的な価値観で尊いという意味ではないのです。質的な違いを表すと思われます。尊いという意味を考える時参考になるのが、哲学者のカントの言葉です、「目的には尊厳があり、手段方法には値段がある」という趣旨のことを言われています。検索してみると、NHKラジオの高校講座「倫理」には次のように述べられています。
   「人間の尊厳」自らの意志で道徳的に生きるという自律の力を持つ存在を、カントは「人格」とよぶ。人間が尊いのは、この人格をもつからである。したがって、人間は人格として、自分のことも他人のことも手段としてのみ扱ってはならず、常に同時に、目的として扱わなくてはいけない、ということを、カントは道徳法則の一つと考えた。この考えは、人間尊重の精神のよりどころにもなっている。
 本当に尊いものを見る智慧、すべてのものに尊さを見る智慧を「南無阿弥陀仏」として人間に届けたいというのが浄土教の教えです。その働きを感得できる場が浄土と言われるものです。浄土とは仏の働きの場です。その場に身を置くことで、はたらきに響感するのです。妙好人才市は自問自答して、「浄土はどこだ、ここが浄土の南無阿弥陀仏」、お念仏の出る所が浄土だと味わったのです。
 私に先立って、仏の心に触れて、南無阿弥陀仏と念仏する師や友に勧められて聞法をはじめました。よき師、よき友の南無阿弥陀仏を褒(ほ)め称(たた)える法話を聞き、仏の心に触れて念仏するように育てられました。南無阿弥陀仏は言葉になった仏さんです。念仏するたびに、迷いを転じて仏の心に立ち返るのです。南無阿弥陀仏こそが本尊、全ての存在に尊い意味を感得する智慧を届けてくれる言葉、言葉となった仏という意味です。

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