6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2562)

 聞法の場に出席しても、「分からない」:「分からない」という時期を、誰も必ず経験します。その解決のヒントは以下の対話にあります。
 ある仏教者の発言、「仏教が分からない、分からないと私も若い時期、そう思って何度も聞法を止めようかと思いました。その時、先輩と師の対話が思い出されました。『分からない、分からないと思うのはあなたの聞き方が足りないのだ。あなたが分かろうとしているのは話の内容をあなたの理解の中に入れようとしているのだ。』『あなたの理解の中に入る小さなものであるならば、分かるとなるだろうが、あなたより大きなものは、あなたの理解の中に入らないのだ』、 それなら、『本当に仏教を聞くとは、どういうことか』、というと『仏の教えを全身を集中させて聞き、教えに聞き順(したが)うことだ』というような対話でした。これは、はっとさせられ、心に響きました。」
 西田幾多郎の言葉として伝えられている「大きなものは述語になれない」があります。例えで示しますと、色々と問題お引き起こし、その問題の後始末に親を手こずらせている10才台の子どもが「私は親を大事にしています」と発言するとします。家庭の内情を知っている親戚の者は、「あなた何を言っているのよ。さんざん親に迷惑をかけて、そんなこと言える義理でないでしょう」というでしょう。
   親より体力、能力、財力、世間知、経験などで劣っている子どもは、自分の分際を知らないと「親を大切にする、大事にする」と実質の伴わない空言の発言になってしまいます。言葉を発する子どもの力量を親と比較すると、その発言が実質を伴うものかどうかが自然と知られるでしょう。
 仏の圧倒的に大きな世界(仏の内容を無量光・寿と表現するのは、量ることを超えた世界を表しています)を感得するようになると、「仏教が分かった」とか「仏を大切にしています」、という表現を自然としなくなります。仏の無量の世界に、有限な我々は包含されているような存在です。
 「人間とはどういう存在か」「人生にはどういう意味、物語があるのか」という、事象のあるがままの全体像を理知分別の視点の方がよく把握しているか、仏教の智慧の視点が納得できるものを示しているかということです。仏教の学びをしていく中で実感させられることは、理性知性分別から見る視点はどうしても表面的で狭く、浅く、局所的になりがちであるということです。
 人生を約70年歩んでいろいろ経験してみて、同時に聞法しながら仏教の智慧の視点に触れる歩みの中で、気づかされることは、人間の心の深みまで含めた全体像、人生の長期的(三世を貫く)視点、ありのままをありのままに見る仏教の智慧の見方の方が深く広く含蓄があることに驚かされるのです。
 仏教の師がよく目覚めのたとえとして表現されていた「卵からひよこへ展開」は分かり易いです。我々は理知分別で自己中心的に思考するという殻の中の存在だったのです。しかし、殻の中にいるということには全く気付きません。次元を超えた仏の智慧に触れて、ひよこになってみて初めて、自分の思考の殻に驚くのです。自分の力では気付きようがありません。
 よき師・友を通して仏教の学びの道に導かれ、先人の仏教文化の蓄積に触れ、学びの中で「仏教は分かったのか」と問われれば、仏教のほんの一部を学びつつあります」としか言えない。学ぶほどにさらに教えを訪ねて行きたいという気持ちにさせられます。
 僧伽(サンガ、求道者の集い、聞法の集い)においてよき師や良き友の南無阿弥陀仏との出遇いを褒(ほ)め称(たた)えるお話(讃嘆)を聞く中に、それらの人々(御同朋、御同行)の人格性に触れて、一人一人違う業(その人の歴史、境遇など)を抱えながら精一杯、念仏して生きている生きざまに、青色は青色に、黄色は黄色に、その人らしく光輝いている世界を憶念して拝むことができるのです。
 世間的な価値判断の尺度を仏の智慧で照らし出され、照らし破られない限り、「その人らしく光輝く世界」に共感して感動する視点は出現しません。その照らし破られた感動は私の素直な思いであると同時に、私を超えた仏の世界に共鳴している相(すがた)と気付かされるでしょう。
 仏の世界を讃嘆する師・友の人格性に共鳴する心は、私を超えた世界に触れていることを示していると受け取ることができます。連如上人の御一代聞書の文、「法敬申され候う。とうとぶ人よりとうとがる人ぞとうとかりける、と。」 (西聖典注釈版1313、東聖典902、島地聖典30-379(法敬坊が「尊いお方であると尊ばれる人よりは、尊いお方だと尊ぶ人が、かえって尊く思われる)と申されたところが、蓮如上人が 「面白きことをいうよ、もっとものことを申され候う」(おもしろいことをいうたものである。いかにも道理のあることを、法敬坊は申された) といわれたそうです。
 よき師や友の生きる姿勢の背後にある世界を感得する者は、一歩前を歩く諸仏(よき師、よき友、御同朋、御同行)の、念仏との出遇いを喜び、そして念仏を讃えている生き様を目の当たりにするのです。そして自分もその教えの流れに預(あず)かりたいと、念仏する人の人格性に惹かれて念仏する存在へと導かれるのです。私にまで届けられた念仏になった仏さん、仏と一体となるその感動の生き様を、歎異抄第一章には「弥陀の誓願、不思議にたすけられまいらせて、往生おば遂げるなりを信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり……」と表現されています。
 師より長年、懇(ねんご)ろなるお育てを頂き、仏教が分かったかと言われれば、教えの一部を受け取れるようになったことはありますが、到底分かったとは言えません。聞法を始めた初期の頃、我々は「分別の殻の中の存在だ」と言い当てられたことの驚き、そして「仏教は一生、被教育者としての道である」と感じたことの、再認識をさせられることであります。
 師から何を学んだかと問われれば、確かに仏教の知識的な基礎を教えていただきました。しかし、知識以上に,「師の生きる姿勢」「仏教に対する姿勢」を教えられたように思われます。それを先輩は「仏の教えを全身を集中させて聞き、教えに聞き順うことだ」と表現されたのでしょう。仏教の宝の蔵をさらに訪ねて往生浄土の歩みを進めて行きたい。

「少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んべからず、
未だ覚めず池塘春草の夢、階前の梧葉すでに秋声」

 この詩は『偶成』朱熹作と習いましたが最近の研究で日本人僧侶の作とされるようになっています。詩の後半の意味は「ふと気がつけば、石段の脇に繁る梧桐の葉が秋の訪れでいつしか色づいているように、自分も人生の秋ともいうべき時期にさしかかってしまった。あの葉がやがて儚く散ってゆくのと同様、私もこの世を必ず去らねばならない。止めるすべもなく、無常にも時間だけが移ろい、ただ過ぎ去ってゆく」ですが身に染みます。南無阿弥陀仏。

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