6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2562)

 釈尊の出家の動機としてよく語られる「四門出遊」(しもんしゅつゆう)という説話があります。釈迦族の王子として育ち、何不自由のない暮らしをしていた若者がなぜ出家したのでしょうか。
 釈尊こと悉達多(シッダルタ)王子は、幼くて母親を亡くし、ものに感じやすい考え込みがちな少年でした。ある年、年中行事の鋤き入れの式がありました。
 王子は、父の淨飯王に連れ添って、それを見ていると・・・。鋤きで掘り起こされた土の中にいた虫を、鳥が舞い降りてきて食べてしまったのです。その光景は、何度も何度も繰り返されました。王子は、いたたまれなくなって、そして思いました。
「一方が生きるために、一方が殺される・・・なんとむごたらしい・・・生きることはすべて苦である・・・」
「そして、それは、確かに現実なのだと・・・、そう、一切皆(行)苦なのだと・・・」
 釈尊が物思いに耽って、いまでいう鬱(うつ)の状態になっているのを案じた父が、彼を城外に出して散策させます。太子がお城の東門から馬車に乗って出かけると、見るに耐えないヨボヨボの老人と遭遇しました。太子は、お供の者に『あれは何者か?』とお尋ねになりました。お供の者は、答えました。
『老人でございます。すべての人間は、生身であるいじょう、老いの苦しみを免れるものは、ございません』
 太子は考え込んで、もう遊びにいくどころではなく、お城へ帰りました。
 それからしばらくして、また、外出することになりましたが、東門をさけ、南門から出かけました。すると、道端に倒れている病人と遭遇しました。太子は、お供の者に『あれは何者か?』とお尋ねになりました。お供の者は、答えました。
『病人でございます。すべて人間は、生身であるいじょう、病の苦しみを免れるものは、ございません』
 太子は考え込んで、もう外出どころではなく、お城へ帰りました。
 また、それからしばらくして、外出することになりましたが、東門と南門をさけ、西門から出かけました。すると、遺体を運んでいるお葬式に遭遇しました。太子は、お供の者に『あれは何者か?』とお尋ねになりました。お供の者は、答えました。
『死人でございます。すべて人間は、生身であるいじょう、死の苦しみを免れるものは、ございません』太子は考え込んで、もう外出どころではなく、お城へ帰りました。
 そして最後に北門を出たときに出家した修行者に出会い、その落ち着いた、清らかな足どりで歩く姿に感動し、出会った出家者に対して「どうして、このように優雅で、しかも尊い人柄ができたのか」と尋ねるんです。すると、その出家者は、 「沙門でございます。出家の修行者でございます。」「私もかってあなたと同じように老・病・死の人生の大きな問題で悩み続けました。老・病・死の苦悩の解決は他に求めて得られるものではなくて、また瞑想して観念的に解決のつくものでもありませんでした。自分を正しく支配できるように厳しい苦行をし、努力を重ねる以外に方法はなかったのです。」

 老・病・死にまつわるつぎのような法話に最近であいました。
『増一阿含(ぞういちあごん)』というお経に、こんな話が出てきます。「三人の天使」という話です。ある男が死んで、地獄の閻魔大王(えんまだいおう)の前に引き出されました。男は閻魔様に、こう言いました。「私は、こんなところへ連れてこられるようなことをした憶えがありません」と。
 そこで閻魔様が、「お前は生きているときに三人の天使に会わなかったのか?」とお尋ねになった。すると、男は、「いいえ、会いませんでした」と応えた。
 閻魔様は、重ねてお尋ねになった。「では聞くが、杖にすがって歩く老人に会わなかったか? 病気にかかり、寝たきりの気の毒な病人に会わなかったか? 死んだ人に会ったことはなかったか?」と。男は応えました。「いいえ、老人や病人や死人は大勢見ましたが、天使には会っておりません」と。
 そこで、閻魔様は、こうおっしゃった。「三人の天使は現れているではないか。その老人・病人・死人こそが三人の天使であったのだ。これを聞いて驚く罪人に、閻魔さまは次のようにおさとしになります。
「お前は老人という天使に会いながら、やがて自分も老いてゆくことに気がつくこともなく、老人はきたないとののしった。
 病人という天使に会っても、自分もいつかは病気になるときがくることを思わずに、病人に対してやさしい言葉一つかけなかった。
 そして身をもって死を教えてくれた死人という天使に会ったとき、やがては自分も死んでゆかねばならぬ身である、せめて生きている間に少しでもよいことをしようという努力もせず、自分だけはいつまでも生きているように思って、死ということを全く考えなかった。
 彼らは、『お前も、やがて年を取り、病気になって、死んで逝くのだぞ、それでいいのか?』と問いかけてくれていたのだ。それなのに、お前は、その声を聞こうともせず、せっかく人間に生まれたのに、むなしく過ごしてしまったのだ。だから、ここに来たのだ」と。
 仏教者の言葉に「罪とは、豊かな一日を当たり前のように虚しく過ごしてしまう事だ」というのがあります。私たちの周りには、沢山の天使がいるのですよ。私たちに、「それでいいのか?」と問いかけてくれている。それを自分への問いかけと気づいたとき、彼らは諸仏となる。この世は仏様で一杯なのです。その諸仏に気づけると、ありがたいのですが。
 聞法の歩みの中で、お話を聞くときに、どういう姿勢で聞くかが大切なのです。現代人は仏教にまつわる知識を増やそうと聞く傾向があります。その姿勢で聞くと、この話はもう一度聞いた、この例えはもう知っている、この先生はいつも同じ話ばかりする……、新しい内容の話をしてくれればよいのに、等々となるでしょう。これは対象化して他人事として聞いているのです。仏教のお話は、「この話、内容、たとえは私においてどういう意味があるのか」と聞くことが大切だ、と師よりお聞きしています。
 前記前の四門出遊の老人・病人・死人の存在も、前記後の3人の天使の譬えでも、対象化(3人称的、傍観者)して向こう側に眺めるように聞くと、自分を照らす教えとは聞こえてきません。

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