10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2562)

 「自力(じりき)、他力(たりき)について」
 「自力」、「他力」は浄土教において使われ始めた言葉と思われます。しかし、世間的にあまりにも知られるようになって仏教とは関係なく使われるようになり、仏教の本来の意味を受け取れないままに、字面(づら)を、そのまま世間的に解釈して仏教の意味に関係なく使われるようになっています。
 本来、仏教では仏の智慧を頂く(禅宗では悟り、浄土教では信心)のに、自分の力を頼りにし、努力して智慧の世界に出ることを自力と言い、他(仏)の力、はたらきを頼りに、お任せして、仏智の世界に導かれることを他力と言う、と理解しています。
 世間的には自力は自分の力、他力は他や他人の力を他力ということが多いと思われます。字面(づら)だけを見て「他力は駄目だ、自力で頑張らなければ」となりがちです。他力は他力本願という言葉がセットになっていてよく耳にするので、本来の本願の心も知らずに「他力本願」と使って、他人頼みの「他力本願は駄目だ」という言葉になったりします。
 仏教では仏の智慧を得るのに自分の能力、知力を頼りにして、努力精進することを「自力」「自力のはからい」というのです。浄土教の場合、仏は凡夫の能力、知力を見透かして、愚かな者を目当てに、本願、南無阿弥陀仏(細川巌師は「汝、小さなカラを出て、大きな世界を生きよ」と表現された)が名号となって私に届く、その受け止めを親鸞聖人は「本願召喚の勅命」と表現されています。仏の世界(圧倒的に大きな、無量寿・無量光)からの働きかけを他力というのです。仏の智慧の世界から見ると私の小賢しさは浅い、狭い、近視眼的、局所的で迷いを繰り返している、と見破っているのです。そのことを知らされると「勅命」として受け取らざるを得ないのです。(勅命とは拒否を許さない命令を示す。戦後の生まれの私達は経験がありません)
 世間的に「自力」、「他力」と表現する用法は時代の流れの中で避けられません。しかし、自分の力を過大評価して、「やればできる」としてきたことが、数十年の人生経験を経てみて、「自分の愚かさ、迷いを繰り返している」との仏の指摘を頷けるようになっていくのでしょう。
 親鸞聖人の自力の受け取りを文献的に見てみますと、

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。 (一念多念証文、西聖典注釈版688)

自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人(しようにん)、善悪凡夫(ぼんぶ)の、みずからがみ(身)をよしとおもうこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、(また人をよしあしと思う心を捨て……これは島地聖典20-9にのみ掲載)(唯信鈔文意、西聖典注釈版707)

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。 (御消息、西聖典注釈版746)

 「わが身をたのみ」「わがこころをたのむ」「善根をたのむ」「身をたのまず」「わが身をたのみ」とあるように親鸞聖人は、自力とは自らをたのむことである、と示されています。自力とは、自分自身をあてにし、自分自身にたよるということです。
 世間では、自力とは他力の反対語です。ただ浄土真宗では自力の反対語は他力ではない。浄土真宗においては自力・他力とは宗教的世界観の違いをあらわす概念だからです。私の職場の療養型病棟では寝たきり状態の患者のことを表現する時、「食事は自力で食べているの、それとも介助によって食べているの?」と聞くような場面では世間的な用法で使っています。
しかし、仏教の関係での対話では誤解につながることになります。
 本来の仏教の使い方では、「自力・他力」とは、悟りを開くとか、お浄土に生まれるという場面においてのみ用いる言葉です。阿弥陀如来の力をあてにするのが他力です。
 私たちの普通の思考はハイデッガーの言う「計算的思考(How to を考える」をしています。即ち、現象の仕組みやカラクリを解明して、それらをうまく使って事物や現象を理解して、思い通りに管理支配しようとするのです。台風の天気予報で、台風の性質、進路予測を理解して、予報の新しい情報に注意しながら、進路にあたる場合は予測される気象状況に応じて災害被害を少なくするように私たちは行動するのです。
 私達は生きてきた人生経験で一人ひとりがその人なりの世界観(現実社会を解釈)を作り、その「思い(その解釈した社会、)」をもって世間を生きています。だから一人ひとりがみんな同じ社会を見ているようで、みんな違うわけです。一人ひとりが自分の思いを持って生きているのです。しかもその思いというのは、さまざまな歴史、いろんな経験・環境というものに影響された「思い」のなかを私達は生きているのです。その思いを離れることは絶対にできません。
 しかし、この世界は私達の思い通りにあるのかというと、そうではありません。世界は仏の悟りの如く「縁起の法」によって「あるがまま」の世界が展開しているという現前の事実(現実)があります。私達は思いのなかを生きようとしますから、事実をそのままに生きることはできないのです。私達は現実を都合が良い悪い、好き嫌い、利用価値の有無などを分別して、思い通りにしようと様々な思索・行動をしています。
 生きていく上では、思い通りにならない現実に必ず出くわして、私を苦しめ悩ますことになります。ではなぜ苦しむのかというと、その苦しみの原因というのは「事実」と「思い」というものが離れる、乖離(かいり)するから苦しむのです。仏教では苦しむというのは、「事実」というものと自分の「思い」が異なっている、差がある、これが苦の原因であるということができます。自力の方向性は、自分の努力、精進によって仏に近づくように進むのです。「分別」の迷いを克服していって、あるがまま、「事実のまま」に生きようと歩むのです。
 「あるがまま」に、今、ここにこうして生きているという事実、ここ以外に私たちが生きて行く場所は何処にもないのです。私たちは一秒先も生きられないのです。今、ここにこうしているところだけが、本当に立つべき場所(現実)なのです。それなのに、思いの中で、ああだったらよかったのにと悔いながら(持ち越し苦労)、未来を期待しながら生きていくのです。反対に未来に絶望することも(取り越し苦労)あるのです。それは、今、ここを生きるということができていないということです。
 仏教はすべて「「事実のまま」にこれを仏教用語では「如実」といいます。「事実のままに生きていく」、「思い」と言うものに囚われずに、「事実」を生きていく、あの人が好きだ、嫌いだというのは「思い」です。でも事実は好きな人・嫌いな人とも一緒にいるのです。ですからそういう私たちの思いを越えた「事実を回復していこう」というのが仏教の目的です。その目的を達成する方法に関して自力・他力ということを言うわけです。
 仏の智慧は「私たちの迷い」を照らし出すほかにあるのではないのです、迷いに気づかせるものが真(まこと)のはたらき、真理です。迷っている者をほっておけずに大悲して行動を起こしたのが浄土の教えです。
 仏の世界から凡夫に向けて、智慧と寿(いのち)を届けたい、と働いている仏は阿弥陀仏だけなのです。阿弥陀仏のはたらきの場を「浄土」という、浄土という国を建立して迷える衆生を浄土に迎え取って、仏の智慧のなかを生きる存在に教化するのです。全ての人がこの「ありのまま」、「如」というあり方、これを如何に回復していくかということです。「今、ここにこうしてある」という現実を否定する人は誰もいないのです。そういう意味ではだれもが悟る可能性を持っています。

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