11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2562)

 (親鸞仏教センター通信第65号2018.6.p5-6)に掲載された慶大 教授 前野 隆司氏_の 「心の哲学と幸福論」という文章の一部です。
 心の哲学への関心。松本元(1940 - 2003、脳科学者。神経細胞が巨大で観察しやすいヤリイカの人工飼育法の開発、神経細胞の研究、脳型コンピュータの開発を手掛けた)は、心は「知」「情」「意」「記憶と学習」「意識」の五つにより理解できると言われましたが、その内の「知」「情」「意」「記憶と学習」の四つをロボットにプログラミングすることはできるようになりました。ですが、ロボットに「意識」をもたせることはできていません。「意識」というものの仕組みがまったく明らかになっていないからです。他の生物やロボットと違って、人間に「意識」が生じたのはなぜか。
 そこで、心の哲学ということに興味をもったのですが、これは心や意識、およびそれらの働きと性質、そしてそれらと物理的なものとの関係を研究する学問といえます。
 「意識」のとらえ方と「無意識」
 結論を言えば、私は「意識」はひとつの幻想だととらえています。別の言い方をすれば、「意識」は「無意識」に追従しているものではないかとも考えています。例えば、今、皆さんは私の話を聴いてくださっていますけれど、突然、蜂に刺されたらそれどころではないですよね。意識は刺されたところに一気に注意を向け、「これは大変だ」と何とか対応しようとする。しかしこのとき、「あ、蜂だ!」「危ないぞ!」「痛い!」といったあらゆることを意識しだしたら、「意識」があらゆる内容と結果をすべて把握し統合できる万能なシステムでなければならないことになります。
 そこから、「意識」は司令塔的にすべてを把握し統合するシステムではなく、無意識的に行われたことの結果へ受動的に注意を向けて、あたかも自らが行ったかのように幻想体験しているにすぎない、と考えました。これを「受動意識仮説」と呼んでいますが、この元となったリベット実験というものによると、「指を動かそう」と意図するより、(脳からの電位刺激が)筋肉への指令が発せられる瞬間のほうが0.35秒早いとの結果が出されました。つまり、「意識」は自由意志のもとにすべてをコントロールしているのではなく、「無意識」の結果を見てエピソード的に記憶しているだけというモデルを考えました。こうした、現象的意識は幻想にすぎないのではないか、という考え方は、ブッダのいうところの「無我」説に近いのではないかとも思っています。本多弘之所長からは、この「無意識」のとらえ方が唯識の阿頼耶識のことではないかとご指摘いただきましたが、これは思ったことのない見方でした。今後、ぜひ考えていきたいと思います。

 前から前野隆司氏の脳科学関係の本は教えられることが多く、仏教の唯識などとの絡みで興味深く注目していました。「『意識』というものの仕組みがまったく明らかになっていないからです。他の生物やロボットと違って、人間に『意識』が生じたのはなぜか。」という文章を見て考えたことがあります。
 大峯顕師が「物理的宇宙と仏教的宇宙は違うのだ」と言われていたこと、羽田信夫師が法話の中で、「科学者、物理学者は皆、宇宙の中の出来事は無常であることは分かっているのです。しかし、そのことを理解する私、私の意識が無常であるということに気付いていないのです」と言われたこと、「仏教が日本の文化に何を貢献したか」の問いに「内観」であるということだと聞いていたこと、などを私なりに考え合わせてみました。内観は「意識」の課題に肉迫していると思われます。
 「宇宙」、「世の中」、「私の人生」、「人間とは」ということの全体像をあるがままに把握する視点に関して、仏教の智慧、悟りの視点と、私達の慣れ親しんだ3人称的に見る分別(二元的、主客対立にとらわれた見方)の視点では、どちらが全体像をあるがままに捉えることができているかということが問題なのだと考えています。
 仏の智慧、即ち無分別智は辞書的には、知るものと知られるものが一つであるような智慧のこと。ものごとを二元的、対立的に理解していこうとする分別智を超えて、生死一如、自他不二と直覚していく智慧。このように万物一如とさとるこの無分別智のことを根本智とも実智ともいい、またそれを般若(プラジュニャー)ともいう。このような無分別智の境地は、分別を本質とした言葉を超えているから不思議といわれる。しかし無分別智によって生死、愛憎を超えたものは、そのさとりの境地を人々に伝え導くために言葉で表現し教法として示しているのです。これを後得智(ごとくち)とも権智(ごんち)ともいう。 なお根本智に至る前段階を加行無分別といい、加行・根本・後得の三智とすることもある。(梯實圓『歎異抄』p.105より)
 仏教の言葉に「身土不二」があります。私の身と周りの環境(土)は一体の密接な関係です、ということです。時代的、時間的・空間的な周囲の状況が、今のあなたを創り出しているのです。そのことを仏教ではあるがままの如、一如の世界と表現します。外の状況があなたの意向で都合が善かろうが、悪かろうが、それが現前の事実ですから、今の身にとって土、環境はピタリと一致(マッチ)しているのです。しかし、一刹那ごとに変化していく無常ということは避けられません。今の周囲の状況が嫌だとしてその状況を変化させたとしたら、その変化したものが新たな環境因子になるのです。無我、無常、固定した私はありません「空」ということでもあります。但しそれは仏の智慧の目で見た相です。私達の知恵(人知)は、あるがままに見てないでしょう、自分の思い(価値観、人生観、生死観)で見ているのです。
 脳科学的にも、人間の「意識現象」はほとんど手つかずに残された領域なのです。物理学的宇宙の解明は進んでも人間の、いな「私」の意識を含めた宇宙の全体像は、人知には分かることはできないのです。しかし、人知の分かっていない領域を含めて、それらの現象の在り様は、仏教の「縁起の法」に整合性はあると思われます。
 あるがままをあるがままに見る仏智の世界は、この世では「悟り」、「目覚め」、「気付き」などと表現されています(主客対立の分別を徹底的に否定し、この否定に基づく智慧の立場を術語化した表現が無分別智)。浄土教では仏智を頂くことを「信心を頂く」と表現しています。分別を基礎とする人知は、事象を対象化して二元的に受け取り、自分の思いで眺めますから、人知でゆがめられることを避けることができないから、結果として不自然(非本来的)な世界を生きることになります。前野氏のいう「受動意識仮説」はそのことを言い当てているように理解されます。
 前野氏の本を読んでみると、人間の脳はあるがままとは違って、私の思いの都合に合わせて、「だまし絵」というのを見ると分かりますが、だまされやすいように意識活動が展開しているようだと指摘しています。あるがままをあるがままに把握するためには、私の意識をも含めた、全体の現前の事実の全体像の受けとめが大事です。それを教えるのが仏の智慧です。あるがままをあるがままに見る(念仏して受けとめる)時、いわゆる「二の矢」を受けず(分別で思い煩わない)に、不思議にもその現実を納得できる受け止めに導かれるようです。

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