12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2562)

 最近大谷大学の加来雄之先生の文章に出合いました。以下はその一部です。
 「そのままの救い」という言葉を聞くことがある。
 君は君のままでよい。そのままで良いのだ。賢いとか愚かとか、役に立つとか立たぬとか、世間の価値観に押しつぶされ喘いできた私達に「そのままで良い」という言葉は温かく響く。世間の価値観の呪縛から救ってくれる。その意味では、この言葉はこの世からなくしてはならない大事な語りかけである。しかし、「そのままでよい」という言葉は、ある安堵を与えてくれても、私たちの最終的なよりどころにはならないではないか。
「君はそのままでよい」は、君はわがままでよいことではない。
「君はそのままでよい」は、君は他人の言うままでよいということではない。
「君はそのままで良い」とは、君は変わってはならないということではない。
 なぜ「そのまま」だけで終わってはいけないのか。その理由は、これまで私たちは、これまでも「そのまま」であったし、そのなかで私たちは喘いできたからである。「そのままでよい」が、喘ぐことへのアキラメという現実の肯定になったり、喘いできた自らの歴史から目を背けるという現実からの逃避に終わってはならないからである。(ここで加来先生の文章を一旦中止)ここで作者不明の『凡夫のこころ』という文書(私の喘ぎをよく表現しています)を紹介します。

 み法(のり)聞く身となるまでは 己が心のおろかさを 知らず我こそ善人と
 思い上がっていたけれど気づいてみれば恥ずかしい。
 知恵も力もないくせに  己が力でなにもかも 出きるやれると思い込み
 生きているのも我が力 食うているのも我が力 誰の世話にもならんぞと
 力む我が身の身体さえ 生まれた時から死ぬるまで 人のお世話になりどうし
 吐く息、吸う息、みな空気 水一滴もみ仏の 恵みなければ、得られない。
 お陰を知らず、愚痴小言 我が身勝手を棚に上げ 人の落度のあらさがし
 よその秘密を聞きたがり 言うなと言えば言いたがる 人が困れば、うれしがり
 友の成功、ねたましい 少しのことを恩にきせ 受けたご恩は、忘れがち
 見よと言われりゃ見たがらず  見るなといえば、なお見たい するなと言えばしたくなり
 せよと言われりゃ嫌になる 天の邪鬼ではないけれど 素直になれば敗けたように
 思う心のひねくれを どうすることも出きぬ我 あぁはずかしや、我が心
 地獄行きとは我がことよ それを地獄にやるまいと 四十八願 手をひろげ
 救わにゃおかぬご誓願 弥陀のご恩の尊さを 知らせ給える祖師知識(よき師、よき友)
 ああ、ありがたや 南無阿弥陀仏    (作者 不詳)

(加来先生の文章を再開)私たちは喘いできた現実にきちんと向き合い、はっきりとその正体を知ることによって、「そのまま」は「そのまま」であることを変えることなく、次の「ありのまま」の私という課題へと移っていくのである。
 君は君に帰らなくてはいけない。
 君は本当の君に成らなくてはいけない。
 君は唯一の君を生きなくてはいけない。
 「そのまま」ということは「ありのまま」ということではない。「ありのまま」ということを、先人は次のように語っている。
 私は思いで生きているのではない。私は一人で生きているのではない。
 私という存在はさまざまなことに関わって成り立っている。
 家も、服も食べ物の、私一人で作ったものではない。大地も水も空気も私が作ったものではない。私の言葉も思想も私が作ったものではない。この世も私が作ったものではない。私自身もまた私が作ったものではない。私は無限の縁の中に生かされている。
 何一つ私が私有化してよいものはない。
 しかし、その「ありのまま」の私に目覚めて、生きる責任、それは私にある。
 君はさまざまな人や物に支えられている。
 君は、人の世を生きていかなくてはならない。
 君は社会の中の一人であり、また君が社会を作っていく。
 「そのままの君でよい」とは、「ありのまま」の自分が見える時にはじめて実現するのである。なぜなら私たちの事実は、私たちの思いのままにではなく、「ありのまま」という私たちの身の事実にあり、そこだけが私たちの立ち上がる原点であり、歩み始める出発点だからである。どんなところでも、どんな場所でも、「そのまま」から出発できるのは、「ありのまま」という事実を生きていると目覚めることによってである。(後略)

 「『ありのまま』という事実を生きていると目覚めること」とは、「ありのまま」とは仏の悟りの内容「縁起の法」に沿うということであります。それは「本来性の在り方」であり、「自然」な事であるということです。この世(仏教的宇宙)の事はもれなく、無数(量)の「因」や無数(量)の「縁」が和合して、働き(「業」)が起こり、ある結果(「果」)を引き起こす、その果は次なるものに影響を及ぼす(「報」)、因・縁・業・果・報と展開することを示しています。これは科学的思考と整合性が合うと私は思っています。
 不自然や非本来的な在り方(年は取らない、生きているのは当たり前)をしていくと、どこかでひずみ、摩擦が起こり、予想通り、思い通りに事は運ばず、当事者の苦しみや悩み、不安、不協(響)和音を引き起こすことになります。
 自我意識の私は頭を中心に考えて「思い」を通そうとします。しかし、意識を支えている身体、身体を支えている内臓(免疫、血管、神経、肺、心臓、肝臓、胃腸の消化吸収、手、足、等等)によって支えられ、生かされているのです。生死一如というように、私の生きている生命の全体像を「縁起の法」に依って考えると、一枚の紙のように生命の表が「生」の姿であり、裏は「死」なのです。死ぬのが当たり前の所をかろうじて内臓によって生かされているのです(死にたいと思う人の身体も)。
 患者さんから、「(いのちは)大丈夫でしょうか」と問われることがあります。生物の歴史、37億年、類人猿の歴史、500万年、人類の歴史、20万年、自然の治癒力を備えるようになり、生き物の中で選ばれて生き抜いてきた歴史の再先端にいるのが今、生きている、生かされている我々の事実です、いつ死んでもおかしくない状況を生かされてきたのです。
 欲に汚染された「思い」を大事して我がまま(そのまま)で生きるのか、仏の智慧の目を大事にして、教えの如く「念仏」して、「あるがまま」に目覚めて生きるかが問われています。

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