1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2562)

新年、あけましておめでとうございます。今年も念仏を頂いて生きる1年でありたいと思っています。ご指導ご鞭撻をお願いいたします。合掌 2019年正月 田畑正久
 無量寿は慈悲を表すと言われていますが、無量寿と慈悲の関係はどうなっているのでしょうか?
 『無量寿』という言葉の意味
 「無量」という言葉は、直訳すると「量ることができない」という意味になりますが、これは、「限りがない」という意味です。「寿」という言葉は、「寿命」という言葉があるように、「いのち」という意味です。ですから、「無量寿」というのは、直訳すると「限りない命」ということになります。
 阿弥陀如来という言葉は、お釈迦様の言葉の響きをそのまま残したもの(音写)です。漢字そのものに意味は込められていません。それに対して、阿弥陀如来という言葉の響きが持つ意味を、漢字が持つ意味で表そうとされた一つが、「無量寿如来」なのです。
 法然聖人は、阿弥陀如来が「限りない命の仏様」であるのは、大慈悲の現れであることを教えておられます。「限りない命」と聞くと、死なない命が単独であり続けているように想像しますが、そうではありません。
 「限りない命の仏様」というのは、その仏様にとって見捨てることのできない、慈しみ悲しむべき命が限りなくあるからなのです。阿弥陀如来が願う生きとし生けるものの安らぎは、過去・現在・未来という時間を超越しています。阿弥陀如来のお慈悲の働きに終わりはありません。あらゆる命の悲しみや苦しみを限りなく背負い続けていくのです。そのことを教える御同胞の講義録があります。

 「涅槃経」(仏陀が入滅する直前の最後の説法と言われている)には、釈尊が最後の病床に横たわりつつ、父殺しの罪に苦悩する阿闍世が自分の所に来ることを待って「阿闍世の為に涅槃に入らず」と語ったということが記されています。釈尊は肉体的には苦しいのです。かえって死んだ方が楽かもしれません。そういう中で阿闍世の為にいのちを保ち続けたいと言われるのです。そうすると摩訶迦葉が「阿闍世だけを特別扱いにするのはおかしいではないですか」と釈尊の真意を確かめる質問をすのです。それに対して釈尊は「阿闍世とは一切の凡夫、一切の五逆をつくる者、一切の迷いの衆生……(迷える者の代表としての存在ということです)…」(島地聖典12−100、東聖典259、西聖典277)ということなのだと語られるのです。
 この釈尊の話を聞くと、私は、細川巌先生が私たちのために苦しい手術を受けて下さり、最後のいのちを、法を求め法を説いて完全燃焼されたことを思います。
 そのように「無限のいのち」というのは、一切のいのちあるもののために存在し続けようという大悲のいのちなのです。一切の衆生を包み続ける摂取不捨のいのちなのです。
 いのちはまた生命力です。いのちを肯定する力です。そこに明るさがあり、温かさがあります。
 「無限のいのち」は一切衆生の為に在り続けようという大悲のいのち、摂取不捨のいのちであり、一切のいのちを肯定する力です。だから「無限のいのち」は「無限の慈悲」なのです。一切の衆生を包む同体の慈悲です。そしてそれは、「永遠の今」としてあるのです。無限の過去と無限の未来を持った現在です。ですから無量寿をというのです。(赤宗正俊、土曜会通信、2018.11、発行:巌松会館より)

 私達は、自分一人の悲しみでさえ背負いきれなくなる時があります。また、それによって、自分の人生でさえ見捨てようとすることもあります。仏様というのは、そんな自分ですら抱えきれない苦悩を背負った数限りない迷いの命を、限りなく慈しみ愛し続けていく働きをいうのです。自らが、他人のために地獄の底に沈んでいき、他人の幸せの為に限りなく働き続ける純粋な命の姿が、「無量寿」という言葉で表されています。
 「無量寿」は慈悲を意味する言葉でもありまずか、仏がいつまでも生きておられるということから慈悲という意味を見出せません。「無量寿」が慈悲だということの意味は、無量寿とは「願の限りなさ」であり、その願とはこの私のために仏が起こされた願いであり、この私のために、私がその願いに目覚めるまで働きをやめることができない、そういう働きを私が感じたときに無量寿が慈悲として感じられるのです。私の上に働いているものを感じなくては無量寿ではないのです。
 そして少なくとも、いのちとは「願い」だということです。まだ死なずにいるということと、生きているということの決定的な違いは、「願い」があるかどうかということです。
 一般に、何か願いを持って生きているときには、たとえ病床に臥していても、そのいのちは生き生きと働いているのです。反対に、たとえ元気であっても、いのちをかけて願うべきものが全く見出せずにいるときは、そのいのちは本当に生きているとは言い難いのです。ですから、そのいのちの内容は「願い」なのです。そして、その願いが限りないということが、無量寿という言葉で讃えられている意味なのです。このような意味で、いのちには限りない「願い」があるのです。
 世間ごとで家庭や職場で行き詰まることがあります。そんな時、思い出される。安田理深師の言葉があります。「人生が行き詰まるのではない。自分の思いが行き詰まるのだ」です。
 行き詰まらないでいる時は、阿弥陀さんを必要と思えません。必要と思えないのは煩悩の用(はたらき)です。しかし、悲観するのも煩悩の用きです。煩悩は蓮の植わっている泥池の汚泥にたとえられます。人間は誰も人生に行き詰まるのをお釈迦さんは「人生苦なり」見抜いたのです。煩悩は人間の自体です、煩悩の汚泥は決してきれいとは言えません。ハスの花は泥田、泥池に咲きますが、しかし泥に汚れません。
 仏教から言うと煩悩は厄介者です。人生のいろいろな場面で行き詰まりを感じる時、「行き詰まっているのはあなたの思い(煩悩まみれの)でしょう」、とよき師から呼び掛けられるのです。そうすると起こっている事実をあるがままにもう一度見直して、何が大事で、何が大事でないか、どちらが本来性を持っているか、どちらが自然な在り方か、を見直すご縁・機会になるでしょう。しかし、生きている間、私の思い、煩悩は無くならないでしょう。
 煩悩のお陰で「『あるがまま』の本来の在り方、自然なあり様にもどれ」、との「願い」を聞くことになります。その用(はたら)きは大悲として過去・現在・未来とずーっとはたらいている(無量寿)のです。「煩悩を尊べたら一人前」という言葉があるそうです。

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