2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2562)

 仏教の基本というか、仏陀の悟りは「縁起の法」と言われています。いろいろな迷信や日時、方角の良し悪しや霊のたたりなど、今以上に振り回されていた時代に画期的な内容の目覚めであったと思われます。「縁起の法」は、すべてのモノは「関係し合い、支え合って」生きているという事です。
 縁起という言葉は、「支えあって生きてゆきましょう」という目標を教える言葉ではなく、「支えあって生きているのですよ」という事実を教える言葉です(この一文は内藤知康師の「やわらかな眼」(本願寺出版社、2005年)より引用して一部改変しています)。
 「支えあって生きてゆきましょう」という発想は私たちの普段の発想から出ているものです。日頃の臨床の場面で、患者が健康や病気にならないように気を使っている場合、聞いてみると「子どもには迷惑をかけたくないから」という人が多いです。その背後には「迷惑をかけないことが良いことで、かけることは悪いことだ」と思っていることが伺えます。
 しかし、人間は周りに迷惑をかけずには生きてゆけないのが事実なのです。そこを「支えあって生きているのですよ」と気付きましょうというのが仏教の視点です。かって高史明師は中学生になった息子さんに、一人前の人間としてこれからは対応するから、「人に迷惑をかけるようなことだけはしないように」と、言い諭(さと)したという。その後、高史明師は、言う言葉を間違えていた、と言われて、「人は周りに迷惑をかけずには生きて行けない、ということに気づく人間になれよ」というべきだったと反省されています。
 縁次第では周囲に迷惑をかけることになりますが、その時、その時の縁次第では仕方のないことです。その時は流れに「お任せ」するしかありません、と患者さんには言うようにしています。
 良寛さんの言葉に「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」があります。江戸時代の曹洞宗の僧侶である良寛の言葉です。1828年の冬、良寛が71歳の時、住んでいた新潟の三条に1500人以上の死者が出る大地震が起こりました。幸いにして、良寛自身には被害はなかったのですが、子供を亡くした山田杜(と)皐(こう)に送った見舞い状にこの一文が出てきます。
 見舞い状では「地震は信(まこと)に大変に候。野僧(やそう)草庵(そうあん)は何事もなく、親類中死人もなくめでたく存じ候。うちつけに(註)、死なば死なずに永らえて、かかる憂きめを見るがわびしさ」と生き長らえたために、こういうひどい目を見るのが辛いという気持ちを示した後、冒頭の言葉が出てきます。(註;「うちつけに」:突然に、にわかに、だしぬけに、遠慮のないさま、むきだしの)
 あるがままをあるがままに仏の智慧の目でクールに見つめるのが一番自然な在り方なのですが、私たちは自我意識で見ますから、煩悩(貪欲、瞋恚、愚痴)に汚染された見方になり、善悪、損得、勝ち負けに振り回されて苦しみ悩みの元になります。それを愚痴と言います。いくら愚痴っても現実は変わらないのについつい愚痴を言います。
 仏の目覚めた法「縁起の法」は、現前の事実は「支えあって生きているのですよ」という明白な事実に目を覚ましましょう、と教えているのです。かって仏教の師は「一番恩を感じないといけないものを我々はあたりまえにしてお礼も言わずに生きている。それは空気と水だ」と言われたことがあります。仏教の智慧は「物の背後に宿されている意味を感得する見方」と言われます。
 仏教のことばで自然を「じねん」と訓じて「自(みずか)ら然(しからしむ)る」という意味に受け取ります。人間の作為のない「そのまま」の在り方が自然である。法(真理)が「そのまま」に顕現していることを示す法爾(ほうに)と自然とは同義語で、その両者を合わせて「自然法爾(じねんほうに)」「法爾自然(ほうにじねん)」という熟語ができています。
 浄土宗開祖の源空は、「法爾自然」を略して法然と号しました。浄土真宗を開いた親鸞は、「自然法爾章(じねんほうにしょう)」と称する一文を認め、その中で「自然といふは、自はおのずからといふ、行者のはからひにあらず、然といふはしからしむといふことばなり」(『末燈鈔』)と説いています。
 明恵は漢語「自然法爾」の意味を「阿留辺幾夜宇和(あるべきようは)」という和語で表わしています。〈あるべきようは〉とは、しかるべき状態のことです。
 明治以降、英語のネイチャー(nature)の翻訳語として「自然」が用いられています。この自然は人間と対置するものとされています。しかし仏教が説いているように、人間は自然を超えた存在ではなく自然の一部であるのです。その人間が科学技術を駆使して自然や人体などのカラクリを解明して、管理支配しようとしているのです。
 「支えあって生きているのですよ」と、目覚めなさい、と我々の目を覚まさせようとしているのが仏の働きです。仏(阿弥陀仏)が南無阿弥陀仏と我々に呼びかけている心は、「汝、小さな理知分別の殻を出て、大きな仏の世界に出てきなさい」の心なのです。
 「支えあって生きているのですよ」と聞くと現実を見回して、都合の善いものは「お陰だなあー」と思い、都合の悪いものは、「邪魔な存在だなあ」「いなくなればよいのに」「関わらないようにしよう」などと、そして自分にとって中立的な多く存在は、いろいろなものやいろいろな事象があるなあ、と傍観者的に眺めるのです。そして利用できるものは何でも利用して「よいとこどり」に努めるのです。
 いくら仏の心を知らされても、理知的な世界に留まる者は傍観者的に眺め、仏の心もいろいろある中の一つの物の見方だと、考える自我意識は姿勢を壊さず、虎視眈々と、善悪、損得、勝ち負けの計算をしていて、自分の在り様や心の深層を仏の光に照らされることを無意識に逃げ、避けているのです。その理知分別の自我意識の私は無我ということを理解せず、「しっかりした私(我)がなければならない」、と「我」をはるのです。そして我を張っている事を「主体的、自主的」と尊重して、煩悩に振り回されていることに気付かないのです。
 キリスト者の星野富弘は「いのちが一番大切だと思っていた頃、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」と詩にあるように、「いのちより大切なものがある」とは「支えあって生きているのですよ」と大きな自然な世界への目覚めをうたっています。今村仁司氏は宗教の目指す世界は「存在の満足」に目覚めることだと記しています。三木清は「幸福とは人格である」と言われ、仏の智慧を身に着ける人格に導かれことが幸福であると言われています。多くのお陰様で生かされている事への気づきの大切さを示唆しています。
 私にとって、その事象が善悪・損得・勝ち負けになる物であっても、すべては、密接な関係で私を支え、気付かせ、目覚めさせ、教え、鍛え、仏の智慧の世界へ成熟させようとはたらき続けてしているのです、「物の言う声を聞く」という受け取りで管理支配しない発想です。仏のはたらき、大悲に触れると、自分の小賢しさのお粗末さに「南無阿弥陀仏」と懺悔せざるを得ません。

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