3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2562)

 高家小学校と八幡小学校が一緒になり学ぶ高幡中学校(各学年4クラス)がかって存在したが、その後生徒数の減少から、現在は宇佐市北部中学となっている。高幡中学時代の同級生から数週間前、医療相談を受けた。受診のアドバイスをして2週間ぐらいしてその友人からメールが来た。その内容は「ショックです。総合病院の検査で膵臓がん ステージ4、余命長くて半年だそうです。連絡はしないで下さい。」であった。彼の住所は、私が仏教の師より聞法していた福岡県宗像市であり、仏教とのご縁をたびたび勧めたが、継続した聞法に繋がらなかった。「連絡しないで下さい」とあったが、放置できずに「仏がいることがはっきりしたら、任せるここと、生死、死を超えることができて救われるでしょう。南無阿弥陀仏」と精一杯のメールを書いて送信した。その後、返信は来ていない。
 この3月に私は70歳になります。かって50歳になった時、お世話になった伯父さん(国家公務員で定年後故郷に帰ってきていた)が80歳になっていた。その伯父さんに、「伯父さん、私、今年50歳になったけど、気持ちとすると30歳代をちょっと超えた感じが続いているけど、伯父さんの80歳になった気持ちはどうですか?」と問いかけた。すると伯父は「お前と同じだ」と返答した。
 釈尊の説かれた内容を集めて釈尊の言わんとしたことを整理して、仏教の悟りの内容は「縁起の法」であると教えていただいています。それによれば、常に因縁和合した「今、ここ」しかない。その一刹那の足し算が1日、1カ月、1年となっていくのです。その時間の受けとめ方が藤田徹文師の書籍(「夢と死」不死の神方、探究社)に紹介されています。

三世(時間)と信心:「夢と死」、藤田徹文 探究社、p180-183、H27年10月より、一部田畑補足。
 三世とは、過去世(前生)、現在世(今生)、未来世(来生)のことである。過去・現在・未来の時間の流れの見方に三通りある。我々の日常の考えは、過去⇒現在⇒未来、の順である。仏教では「業感縁起」という。
 真実は私たちが気付く先(仏の悟りの世界はこの世の延長線上ではなく、超えた世界)にあり、気付きは今(必ず、浄土にいたる目覚め、正定聚は今)であり、それはやがて過去の気づきとなる。未来⇒現在⇒過去、の順である。真実は常に先に存在しているという時間の捉え方である。「法性縁起」という。真実・事実は常に私たちが気付く前に起こっている(真実は、釈尊の悟り、目覚めである。事実は因縁和合(業)した果、現前の事実(現実)である)。
 信心(目覚め)は、阿弥陀仏の本願の廻向に目覚めたということです。気付いた時点、今、現在から出発する。信心の深まりと共に時間も拡がっていく。例えば、昨日のことを思い出し、明日を考えて今日を生きるより、一年前のことからいろいろ思い出して反省すべきは反省し、一年先のことまで考え、計画して生きる方が考え方が深いであろう。
 今の自分に深く目覚めると、自分の頑固さ、執念深いあり方は、この世に誕生してから身に蓄えてきたぐらいの浅いものでない。もっともっと根の深いものだ、その根の深さはこの世に誕生してからという浅いものではなく、過去世からのものに違いないということになる。現在の私をありのままに知ることが出来るのは、過去世までさかのぼって初めて明らかにあるという見方である。今、目覚めることによって、自身の記憶にない過去世が浮かび上がってくる。
 現在(今生)の自身に目覚め、過去世(前生)の自身が浮かび上がってくれば、いやでも未来世(来生)のあり方も明らかになる。信心の時間の流れは、常に「今ですよ」から始まる。すなわち現在世⇒過去世⇒未来世、となる(信心縁起)。
 業感縁起……過去世 ⇒ 現在世 ⇒ 未来世………過去はやり直しはできない……愚痴、後悔
 法性縁起……未来世 ⇒ 現在世 ⇒ 過去世………「これからが、これまでを決める」
 信心縁起……現在世 ⇒ 過去世 ⇒ 未来世
 今、ここにある身を深く知らされる時、過去世が明らかになってくる。信心の時間論は、決して運命論でも決定論でもなく、時間は「目覚め」た今から始まるのである。

 我々の常識の時間を「業感縁起」と示しています。生きている時間の長さを寿命というが、その時間の長さを、平均寿命、健康寿命などと示して比較することがマスメディアに出てきます。しかし、仏教を学ぶことで気付かされるのは時間の量的長さではない、質的な長さです。
 仏説無量寿経(大経)の本願で第15願では、仏のはたらきの世界では生命の量的時間の長い、短いを超えた質的な長寿(いのちの量的な長さの長い、短いに執われない世界)の存在することを教えてくれています。論語の「朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」があります。これは、「朝に人としての大切な道を聞いて悟ることができれば、その夜に死んでも心残りはない」という意味で、第15願にも通じる心です。

 私たちが時計で計る時間は絶対的であると思いがちですが、そうでもないと教えてもらいました。光の速さより早い乗り物に乗ると時間は地球上よりはゆっくり経過すると理論的には説明されています(すんなりと理解できませんが)。浦島太郎のおとぎ話も真実味を帯びて受け取れます。
 時間の受け取りも私たちの思考と比例するようなところがありそうです。3歳の子どもに目の前にアイスとケーキがあるとします。アイスを食べた後、おいしいそうなお菓子を「明日、食べようね」と言って諭しても、「今、食べたい」と言って泣くでしょう。明日という概念が分からないのです。5,6歳ぐらいになると「明日、楽しい所へ連れて行ってあげる」というと喜んで私のいうことを聞くでしょう。年と共に時間や未来を見通す知恵がつくのです。
 私たちは日常生活で、時間の概念の過去・現在・未来(業感縁起)を普通に考えて理解しています。しかし、前記の「法性縁起」、「信心縁起」はじっくりと考えないと理解できないでしょう。
 普通の人が「死んでしまえばおしまい」と思っているのはこの世の事しか考えないからです。生まれる前(過去世、前世)、死んでから(未来世、来世)をも言及するのが仏教の悟りの世界です。三世の救いを説くのです。
 禅宗の人と接点をもって「死」というものを考えると、「死なんて考えなく良い。今しかないのだから、未来の死を取り越し苦労するのではなく、今、今日を精一杯生きることを考えろ」というだろうと思います。
 一方浄土教では、在家の欲まみれで愚かな煩悩生活をして凡夫には、厳しいことを言っても分からないだろう。死ぬ心配をする人には、未来に浄土、極楽があり、「念仏する者を浄土に迎えとる」の仏さんだから、死後のことは心配しなくて、「仏さんへ、お任せ」で良い。死ぬ心配はいらないから、生かされていることではたすあなたの役割を、仏からいただいた仕事と思って、念仏して精一杯果たしなさい、となるのでしょう。
 結果として禅でも浄土教でも、「今、今日を無心に生き切る」、世界に導くことになっていているのでしょう。浄土教は愚かな凡夫でも、寝たきり状態の人でも、念仏で救われる、全ての人に可能な救いとして、「念仏の道」を教えているのです。迷いの流転の人生の最終版でも、どんでん返しが起こって救われるのです。今、そしてこれから、念仏の教えを聞くご縁に恵まれるかどうかでしょう。そのことを先達は以下の言葉で味わっています。
 「これからが、これまでを決める」、「人生やり直すことはできないが見直すことはできる」

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