5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2563)

「臨終ということ」
 佐藤第二病院は急性期の医療を担当する佐藤第一病院などから、長期の療養(医療的管理が必要)な患者さんの受け皿として、役割を果たす医療療養型病棟(50床)を持つ施設です。担当して16年目になりました。最初の頃は親の世代を多く担当していましたが、その後、兄貴姉貴世代を担当するようになっていましたが、最近は私の世代より若い人が入院してくるようになりました。最近、年に40に近い死亡診断書を書いています。与えられた役割として老病死の現場を担当しています。
 病院での死はまさに対象化された他人の「死」です。3人称的に向こうに眺め、冷静に対応しています。その場面では「ご臨終です」と宣告して、家族の労をねぎらう言葉かけをするようにしています。現場で念仏することも少ないです。しかし、70歳になり、友人が「すい臓がんのステージ4です」と告知され、「後、半年は無理でしょう」と言われたとメールを受けとった時、3人称から2人称へ、そして1人称(自分)の死を感じました。その夜、夜明け頃、ふと目が醒めて時、自分の死を考えながら何か,息詰まる不安を布団の中で感じて、色々な雑念のなかで念仏を繰り返したことがありました。
 現代人は「死んでしまえばおしまい」と言う発想で、死や死後のことはできるだけ考えないようにしています。
 死を見つめてその心境を公開した科学者(戸塚洋二東大名誉教授、存命ならばノーベル賞を確実視されていました。大腸がんで化学療法を受けながら)がいました。その内容を以下に提示します。

 「我々は日常の生活を送る際、自分の人生に限りがあるなどということを考えることはめったにありません。稀にですが布団の中に入って眠りにつく前、(1)突如自分の命が消滅した後でも、世界は何事もなく進んでいく、(2)、自分が存在したことは、この時間と共に進む世界では何の痕跡も残さずに消えていく、(3)、自分の消滅した後の世界をかいま見ることは絶対にできない。ということに気づき慄然とすることがある。個体の死が恐ろしいのは、生物学的生存本能があるからであるといくら割り切っても死が恐ろしいことに変わりがありません。お前の命は誤差は大きいが平均値をとるとあと1.5年位かと言われたときに、最初はそんなものかとあまり実感がわきません。しかし布団の中に入って眠りにつく前、突如その恐ろしさが身に染みてきて恐ろしくて、思わず起き上がることがあります。今あげたことが大きな理由です。今の理由を卑近な言葉で置き換えると、俺の葬式を見ることは絶対に出来ないのだということになりますか、こんなバカなことは皆さんお考えにはならないでしょう。しかし残りの人生が1.2年になると、このような変な思いが浮かんできます。
 「残りの短い人生をいかに充実して生きるかを考えよ」とアドバイスを受けることがあります。このような難しいことは考えても意味のないことだというあきらめの境地に達しました。私のような凡人は人生が終わるという恐ろしさを考えないように気を紛らわして時間を送っていくことしかありません。死までの時間を過ごさなければなりません。どんな方法があるのでしょうか、(1)、現役なら、仕事が気を紛らわす手段になる。(2)、引退したら何でもいいから気を紛らわす事を見つけて時間をつぶすことだ。(3)、死が近づいたときむしろ苦痛にさいなまれて、もう早く死が来てほしいという状態になった方がむしろ楽だ。看取る方は大変だろうが、(4)、自殺は考える、簡単に負けるのも嫌だ、おはずかしいですが、とても有意義な人生を最後に送る事とはかけ離れています。
 しかし何とか死の恐れを克服する、いってみればあきらめの境地はないものだろうか。そのような境地をもちろん見つけてはいませんが、身の自由を超克するあきらめの考えを一つ二つ思い浮かぶことがあります。(1)、幸い、子供たちが立派に成長した、親からもらった遺伝子を一部を次の世代に引き継ぐことが出来た、時間と共に進む世界でほんの少しだが痕跡を残して消えるということになるのは、種の保存にささやかな貢献をすることが出来た、と考えて死にたい。これが何とか気をまぎらわすことであった。(2)、もっとニヒルになることもある、私にとって早い死と言っても健常者に比べて十年から二十年の違いではないか、皆と一緒だ、恐れることはない、さらにニヒルに宇宙や万物は何もないところから生ずるし、いずれは消滅・死を迎える。遠い未来の話だが、自分の命が消滅したあとでも世界は何事もなく進んでいくが、決してそれが永遠に続くことはない、いずれは万物も死に絶えるのだから恐れることはない。
 あとの二つはちょっと情けない考えですが、一蓮托生の哲学によって気が休まります。宗教はどうでしょうか、絶対的超越者の存在を信じない、私は信じない、科学者だから、マザーテレサが神の子の実在を信じていなかったという記事を読んでちょっと安心した記憶がある。(3)、生前の世界に死後の世界の実在を信じない、輪廻転生も信じない、なぜなら宇宙が生まれ死んでいくのは科学的事実だから無限の過去から無限の未来に続く状態など存在し得ないからである。(4)、佐々木閑先生(仏教学者、花園大学)からお教えいただいた古代仏教の修行には興味がある。その修行は大変厳しく、また集団でおこなうことが基本ということで、これは僧伽のことですね、苦を解脱するために修行したいと思った時に体力を失い修行が無理な状態になっている。個人的に瞑想をしてあきらめ境地に達する、ニヒルでとりつくしまがありません。結局充実した人生を送る糧はまだ見つかっていません。(以上引用文)

 浄土真宗の教えが受け取れるためには、仏の智慧(無量光で表す)に照らされて私の相(すがた)がはっきりして頷けること、そして助かり様のない私(凡夫の自覚に徹してない)を摂取不捨する仏のはたらきに触れることが大事です。仏の智慧に照らされるとは、(1)私から外を見る視点、それを担っているのは私の理性知性です。その理知分別の有り様を照らし出し、その思考(対象化して3人称的に見る)の狭い、浅い、全体が見えてない、近視眼的、などと短所を指摘されて驚き、自分の生まれた意味、生きる意味、物語、死ぬ意味、物語など考えたことがないと謙虚に自省して、なおかつ、(2)理知分別の背後に潜む煩悩性(我痴・我見・我慢・我愛、貪欲・瞋恚・愚痴)を見抜かれている仏の智慧に触れることが大切です。そして仏道を歩いている人に出遇い、懇(ねんご)ろに指導を仰いだり、教えていただくことが大事です。
 私の尊敬する大峯顕師(阪大名誉教授、哲学)はフィヒテ(17世紀の哲学者)の研究をされていて、その一部を以下のように紹介されていました。
 死はない。死はどこにあるかといえば、ほんとうの生を見ることができない人間の死んだ目の中にあるだけである。したがって、人間は死ぬと言っている人は本当に生きていない人で、初めから死んでいる人だとフィヒテは言っています。これは真理ですね。「死が怖い」と言っている人は、ほんとうの「生」を知らないからです。
 だから、死んだら困る、という人にだけ死があるのです。「死ぬことは阿弥陀さんにまかしてあります」という人には死はありません。これは真理ではないですか。阿弥陀さんは「お前は死ぬぞ」とは仰らない。阿弥陀さんは「お前は仏になる」と仰ってるのだから、その通りに受け入れて、あとは余計なはからいを一切しない。こういう人は死なないで往生するのです。真宗の信をほんとうにいただいた人はみなそうです。妙好人は死にません。浅原才市は、私は臨終も葬式もすんだと言う。それでは何をしているのか。ナンマンダブと一緒に生きている、と言っています。(以上引用文)

 清沢満之から病死に直面した正岡子規に宛てた手紙の記録があります。
 今朝起きると一封の手紙を受取つた。それは本郷の某氏(注、清沢満之のこと)より来たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。『拝啓昨日貴君の「病牀六尺」を読み感ずる所あり左の数言を呈し候
 第一、かかる場合には天帝または如来とともにあることを信じて安んずべし。 第二、もし右信ずること能あたはずとならば人力の及ばざるところをさとりてただ現状に安んぜよ現状の進行に任ぜよ痛みをして痛ましめよ大化のなすがままに任ぜよ天地万物わが前に出没隠現いんけんするに任ぜよ。 第三、もし右二者共に能はずとならば号泣せよ煩悶せよ困頓こんとんせよ而して死に至らむのみ。 小生はかつて瀕死ひんしの境にあり肉体の煩悶困頓を免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安静を得たりこれ小生の宗教的救済なりき知らず貴君の苦痛を救済し得るや否を敢て問ふ病間あらば乞こふ一考あれ (以下略)』 この親切なるかつ明鬯めいちょう平易なる手紙は甚だ余の心を獲えたものであつて、余の考も殆どこの手紙の中に尽つきて居る。・・」(以上引用文)

 浄土教の仏教は凡夫にはわからないのではなく、凡夫だから助かるという教えです。世間一般では、凡夫には分からないとかいって、ゴマ化しているようなところが……。凡夫だから助かるというのが浄土真宗です。凡夫の考えに固執するな、凡夫の言うことよりも如来の言うことを身に引き当てて考えなさいというのです。凡夫とはこの自分のことです。他人事ではない。あゝ私は今まで間違っていた。如来の言葉を疑って自分の考え方につい固執していたなということがフト分かる。これは如来が分からせてくださるのです。そしたら、あゝ、如来の仰るとおりだと自分が変わる。こうなったことが助かったということです。浄土真宗は現在でも、細々ではありますが、「救われている人」を誕生させております。
 救われている人、智慧を身につけた人を三木清は次のように書いています。「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である。」………自覚覚他、覚行円満の存在を「仏陀(ブッダ、目覚めた人)」と表現します。

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