6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2563)

 聞法の歩みの中で、仏の智慧を無量光で示し、智慧に照らされて育てられ(照育)、そして自分の真相を知らされる、そして照らし破られる(照破、殻が破られる)と聞いたことがあります。最初の頃は、自分のことは自分が一番よく知っている、自分の今の心の中なんて自分にしか分からないではないか、と思っていました。しかし、聞法の歩みにしたがって、仏の無量光は私の心の中を陰なく照らし出すということが頷けるようになりました。確かに変化する私の心の表面的なことは逐一知ることは私の方が知っていると言っても良いかもしれませんが、その心の本音や深層の所は仏の智慧が見抜いていると受け取れるようになりました。
 そのことを、在家から坊守になられた方が、師との出遇いを、「私を私以上にご存知の人がいた、私を私以上に愛そうとする人がいた」と感動をもって表現されています。
 唯識の示す心の構造を京都、紫雲寺の住職、伴戸昇空師が以下のように、海に浮かぶ島を喩えとして判りやすく示されています。見える、感じる世界と見えない、無意識の世界で示しています。



 私たちは常日頃は意識(第六識)のレベルで生活をしています。眼耳鼻舌身の感覚器から情報を得て第六識、意識で色々考えて(理知分別)生活しています。仏教の出遇うまでは「理知分別の思考が全てだ」、それ以外考えられない、人間の歴史は理性、知性を尊重して人間中心主義(ヒューマニズム)で理想を目指して多くの取り組みがなされてきた、と考えていました。しかし、現実は思うようになってなく、理想は実現できてないと思われます。その原因を人間の内面の煩悩性にあると指摘しているのが仏教です。理知分別は煩悩は克服されるべきものとして、その影響を過小評価しています。
 唯識では、私たちが意識できる第六の意識レベルでの根本煩悩を、貪欲、瞋恚、愚痴、?慢、疑、悪見であると示します。この中、最後の悪見は、他の五種の煩悩が主として人間の感情的なものに関係するのに対して、知性的な煩悩と考えられます。聖道門仏教では以上の煩悩は修行によって無心となり、克服ないし制御されることが期待されています。
 仏教の唯識のとらえ方では根本煩悩をさらに深層意識の第七識、末那(まな)識に見出して捉えています。具体的には4つの煩悩、(1)我痴(仏教なしで人間は理想を追い掛け頑張れが良い世界が実現できるとの考え)、(2)我見(自分の考えは間違いない、私は物事を正しく見て考えている)、(3)我慢(他を見て自分と比較して優越感、劣等感に悩む)、(4)我愛(差別しない、平等であると頭ではわかるが、わが身が可愛いというエゴの思いが判断を歪める)、を示しています。根本というようにどっぷりと煩悩に汚染されているのです。末那識の中の煩悩には「疑(自分自身を徹底的にうたがう)」、「腹立ち、瞋恚(自分に強く怒る」は入っていません。
 また煩悩を思考と感情の面で分けて、見惑(けんわく)・思惑(しわく)という煩悩に分けて理解することもあります。見惑とは、見解の惑といいまして、自分でいろいろ考え、判断して迷うことをいいます。物事の道理が受け取れるようになると、この迷いは少なくなり、なくなることもあるでしょう。思惑(しわく)とは、情惑(じょうわく)ともいいまして、事の善悪は一応判っていながら、自分の感情に執(と)らわれて、振り回されることです。これは瞬間的に起こることもありますから、制御するには修行のようなものが要るかもしれません。私は「感情の奴隷になるな、南無阿弥陀仏」と念仏することを勧めています。



 夢想庵(大谷国彦師)のHPより(相互関係を示している)
 普通の人、つまり凡夫の日常生活には根本煩悩に影響された付随的な悩み=「随煩悩」が20種類もあるといいます。その症状を以下のように細やかに言われると、日常生活の普通の思考への関わりの圧倒的なつよさにびっくりです。
いかり(忿・ふん) 、うらみ(恨・こん) 、ごまかし(覆・ふく) 、悩ませ悩むこと(悩・のう)、 ねたみ(嫉・しつ) 、ものおしみ(慳・けん) 、だますこと(誑・おう) 、へつらい(諂・てん) 、傷つけること(害・がい) 、おごり(?・きょう) 、内的無反省(無慚・むざん) 、対他的無反省(無愧・むき) 、のぼせ(掉挙・じょうこ) 、おちこみ(?沈・こんじん) 、まごころのなさ(不信・ふしん) 、おこたり(懈怠・けだい) 、いいかげんさ(放逸・ほういつ) 、ものわすれ(失念・しつねん) 、気がちっていること(散乱・さんらん) 、正しいことを知らないこと(不正知・ふしょうち)
 このリストを読みながら、自己診断をしてみると、一つも身に覚えがないという方はいるでしょうか。
 ここで大切なのは、自分の煩悩性を「そんなに強くはない」、「それほど頻繁ではない」というのを、心の中で「ない」と言い換えて誤魔化してしまわないことです。症状の程度は軽くてもあるものはある、少なくてもあるものはある、と判断−診断しないと、病気を見過ごしてしまうことになります。見過ごしてしまうと、当然、治療をしません。治療をしないと治りません。
 心の底から健康になって爽快な人生を送りたいのなら、「心の病気」の症状を見過ごさず、ちゃんと自覚する必要がある、ということなのです。慢性病のまま、うじうじ、ぐじぐじ、不快感や痛みはあるんだけれど、めんどくさい、こわいから、治療したくないという方、強制はできませんが、でも治療したほうがいいんじゃないでしょうか。そのためには、症状をチェックして自覚したほうがいいんじゃないでしょうか。

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