7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2563)

 私は仏法を讃嘆しながら仲間と歓談すると楽しい時間を持つことができます。いわゆる世間話で過ごすのは時間がもったいないように感じてしまいます。蓮如上人は御一代記聞書(蓮如の語録)で「仏法は、讃嘆・談合にきわまる。よくよく讃嘆すべき」(201)といわれています。また同書(251)にはお弟子の法敬坊の言葉が次のように伝えられています。「法敬申され候う。とうとぶ人よりとうとがる人ぞとうとかりける、と。」 (法敬坊が「尊いお方であると尊ばれる人よりは、尊いお方だと尊ぶ人が、かえって尊く思われる) と申されたところが、蓮如上人が 「面白きことをいうよ、もつとものことを申され候う」 (おもしろいことをいうたものである。いかにも道理のあることを、法敬坊は申された)
 尊ばれる人よりも、尊ぶ人が尊い、ということです。尊ぶためには尊ぶものの内容を十分に理解。判断できてないと尊ぶことはできません。自分が不相応に褒められると、はっきりと綺語だと分かります。仏教では身・口・意でなされる十悪の内、言葉でなされる4つの悪が、妄語(もうご、うそをつくこと),両舌(りようぜつ、仲たがいさせることばをいうこと),悪口(あっく、わるくちをいうこと),綺語(きご、おべんちゃらをいう、でたらめをいうこと)、と示されています。
 世間話に関することを「日常性」と表現します。日常性というのは実存哲学で使われている言葉です。日常性ということについてニーチェは、マーケットにむらがる蝿にたとえて「市場のハエ」といっています。これはひどい表現ですが、よく言い当てています。私たちの日常性は汚いものに群がる蝿であろう。いわゆる週刊誌が売れるのはまさにこれです。ハイデッガーは日常性というものについて三つあげています。一つは好奇心、いわゆるせんさく好きという。キョロキョロしている。二つ目は中途半端である。何をやらせてみても続かない。三つ目は人生を空過している。空過とは何かというと人の噂、人の批判、或いは世間話に一日一日を送って、遂に空しく過している、これを日常性というのです。
 仏教では日常性の自己から求道的存在への大きな転回が起こるのです。そこに主体の確立というものがあります。聞法のあゆみの中でいつの間にか仏法の讃嘆が好きになります。讃嘆することの大事さを親鸞聖人は「尊号真像銘文」の中で、称名念仏の様々な意味として述べています。

 「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏(たんぶつ)」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは、仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔(さんげ)」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。(西聖典注釈版655)

@ 「南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり」これは仏コ讃嘆というものでお念仏が自然と口に出た時、仏さまのお徳の偉大さ素晴らしさを褒めたたえることにもなるのだと教えて下さいます。
A 「南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになるともうすなり」「無始より」は人間としていのちを授かってから今日に至るまでだけでなく、生まれる前、遠い遠い昔、六道輪廻の世界を経巡っていた頃からということ。長年の罪業をお念仏一つで悔い改めてくださる阿弥陀如来様の偉大さを感じずにはいられません。勿論念仏を称えた事を手柄と考えてはいけません。
B 「南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり」これも念仏によって往生を遂げたいという自力の心ではなく、お念仏の教えを信じた時、自然と阿弥陀仏の安楽浄土に生まれさせてもらいたいと欲する気持になるということです。
C 「南無阿弥陀仏をとなふるは、一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり」信心が相続し常にお念仏が口に出てくるようになると、自分の周りの方々を感化しお念仏が広まります。そして名号の徳をお互いに与えることになります。
D 「南無阿弥陀仏をとなふるは、すなわち浄土を荘厳するになるとしるべしとなりと」念仏を称えることは、浄土をきれいにすることになります。念仏者はこの世にいながら、阿弥陀仏の仏弟子に仲間入りをし、位を等しくするのであって、浄土を荘厳する徳を備えることになります。
 経典には沢山のお念仏の心が説かれていますが、仏さまに対する素直な気持ちが何より大事だと思います。仏や仏の教え、善き師を思い浮かべながら、日頃の自分の行ないを反省し仏さまと心静かに対話をさせていただく。このようなお念仏で結構なのです。ただ自分の欲をかなえる為に仏壇に向かいお念仏して欲しくはないということです。
 我々は他をほめるという事は、病に伏してベッドの上に体を横たえている時でも、体力・気力、精神力がなくても可能でしょう。しかし、内容を受け取れてないで褒(ほ)めるとそれは綺語になります。自分の不案内の分野をほめることは褒められた人が、その褒め言葉の内容を聞くと、分かって発言しているのかどうかはすぐに気付くものです。
 評論家的に批判する時は、自分は安全な場所にいて、傍観者的に他を批判する。それは普通の我々の日常性でよくある事で、仏教の悪口、綺語に相当するようです。できるものなら慎みたいものです。
 世間を代表する週刊誌には、臭いものに群がるハエの如く、日常性と妄語、両舌、悪口、綺語の話題が渦巻いているようです。しかし、その内容は読後感想として虚しさと空過の感じしか残りませんのでできるだけ読まないようにしています。新聞など広告の見出しを見ると内容も想像がつきます。

 東京ビハーラの会報「がん患者・家族語らいの集い通信」の編集後記(2018.8.)を西原祐治さんが書かれています。その中で『無憂華夫人の一生』 (山中 峯太郎著)に掲載されていた九条武子の逸話が紹介されています。(九条 武子(1887〜1928)本願寺21代明如上人の次女。現・京都女子学園、京都女子大学を設立、大正大震災による負傷者・孤児の救援活動(「あそか病院」の設立)などさまざまな事業を推進した。)
 婦人会の活動で九州へ出張されたときのことです。門司から小倉へ、自動車で行くとき、道の両側には、多くの信者が列をなし、手に珠数をかけて礼拝しています。お供の末広唯信氏が、その純情な光景に接し、「御覧あそばせ。あんなに皆の人が拝んでおります。けれども、奥様の高いお身分や美しいお姿を、ああして拝んでいるのではありません。親鸞聖人より貴女さまへつづいています七百年の法灯に、この純真な人たちは、信仰の上から珠数をかけて拝んでいるのです。おろそかなことではございません」と、感激のあまりお伝えしました。夫人はこの時、ただ頷かれるばかりで、何のお答へもなく、やがて小倉に着きました。
 末広は、少し自分の言葉がすぎた、お機嫌にふれたのではないか、と恐縮していると、東京へ帰られた婦人から手紙が届きました。その手紙には、「九州巡回でさぞお疲れでしょう。門司から小倉への途中、自動車中でのご忠言、ありがたく聞きました。あらためてお礼を申します。私の心持は、この歌でご承知下さい」と書かれ、“むなしわれ百人千人(ももたりちたり)たたえても わがよしと思う日のあらざるに“と歌が詠まれていた。末広氏はこれを読み、ただ恐縮し、まことに御謙遜な夫人が自身を反省されることの深さと尊さに、「真に拝みたい気がしました」との思いを持った。
 「わがよしと思う日のあらざるに」という内省の深さに頭が下がります。その武子さまの歌に“この身こそ尊くあるか否(いな)あらず ぬかづく人を尊しとおもふ”とあります。わたしのことを尊いと思う、その心こそ尊いという歌です。武子さまは、また“ぬかづく人を尊しとおもふ”ご自身の思いを尊いと感じておられたに違いない。『蓮如上人御一代記聞書』に「御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこころをよろこびて南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と申すばかりなり」とあります。阿弥陀さまは、わたしの身の上に、「南無阿弥陀仏」や「ありがたさと思ふこころ」となって至り届いているのでしょう。
 仏教の場合は、その人の受け止めの深さが自然と言葉になって出てきます。蓮如上人の文章に引用されている言葉、「うれしさを むかしはそでに つつみけり こよいは身にも あまりぬるかな」(和漢朗詠集、古歌)や三木清の「人生論ノート」は、幸福についての文章で、「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現はれる。歌はぬ詩人といふものは眞の詩人でない如く、單に内面的であるといふやうな幸福は眞の幸福ではないであらう。幸福は表現的なものである。鳥の歌ふが如くおのづから外に現はれて他の人を幸福にするものが眞の幸福である。」には、心の内実はからなず外面ににじみ出ることを示しています。

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