8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2563)

 医療現場でACP(アドバンス・ケア・プランニング、Advance Care Planning、註参照)を患者家族や多職種の関係者によって協議する場を設置するように医療施設設置基準の中で求められるようになりました。その為もあり「終活」に高齢者が関心を持つように勧められています。ACPのことを皆さんの理解を得るように「人生会議」というネーミングで国は普及することに取り組んでいます。
註:アドバンス・ケア・プランニング(Advance Care Planning :ACP)とは、患者さん本人と家族が医療者や介護提供者などと一緒に、現在の病気だけでなく、意思決定能力が低下する場合に備えて、あらかじめ、終末期を含めた今後の医療や介護について話し合うことや、意思決定が出来なくなったときに備えて、本人に代わって意思決定をする人を決めておくプロセスを意味しています。
そんな中で以下のような相談を受けることが多くなりました。
「私は10年ほど前から遺言書を用意しています、また、最近では更に「終活」と称して、人生の後始末の方法を家族に伝えるようにしています。これらはみな家族に迷惑を掛けたくないという思いからです。しかし、このごろ思うことは、果たしてこれらの行為が真宗(仏教)の教えに叶うか否かということです。なかでも終末医療のあり方については大いに迷うものがあります。正直なところ、私としては生命維持装置に繋がれて生きながらえることは避けたいと思っています。………」、この相談者はお寺で仏教の学びをされている人です。
私自身も意思表示しなければならない年代になってきました。そこでは私は自分の希望(肉体的な苦痛は緩和して欲しい、人間的な精神活動を伴わない不自然な延命は希望しない)を妻や子供に言葉で示して、後は残った人の考えや思いに「お任せ」にしています。
このような相談を受けた時、仏教の教える所を伝えるようにしています。それは、仏教の広く深く、長期的、三世を貫く思考に順じて生きたい、と念じているからです(仏の智慧に照らされると、私の理知分別の科学的思考は愚かで、浅く、狭く、近視眼的思考の傾向が強いと納得するからです)。
仏教の基本は「縁起の法」で教えられるように、我々は縁次第では如何なる振る舞いもすること(生き様、死に様も含めて)を教えられ、受け止めています。死に様は縁次第であり、現実は我々の思いで管理・支配できるものではありません。また死の縁無量なりと教えられていますし、実際天変地異や種々の事故、自分の病気(老病死を含めて)も管理支配できません。死にざまを議論する人生会議ですが、生き様と離れて死に様があるのではない、生死一如というように、私達の動的な生命活動は死に裏打ちされている(自発的に一部を壊しながら、同時に再合成をして、エントロピ―の法則に対抗して生命を維持している)ように、生きている生命活動は動的に常に変化して、壊しつつ再合成して再生しながら、因縁の集合体としての生命が、ご縁に恵まれて生かされて維持されて生きているのです(あること難しの現実)。
「終活」を色々思考する時に大切なことは、生き様の延長線上(地続きの先)に死に様があるということです。医療現場の先輩たちが、「生きてきたように死んでいく」と表現されることが多い。本質的に「生き様」を大切にする思考が求められるのです。私たちは生きることの意味をどうかんがえているでしょうか。
「スッタニパータ、さわやかに生きる、死ぬ」羽矢辰夫著 NHK出版、2007年 に以下の文章がありました。
「私の人生は一回だけで、死んだら終わり。だから、生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。私【だけ】が幸せになることが、人生の目的である」。この思考は、人によって程度の差はあれ、虚無主義と快楽主義と個人主義が複雑に絡みあいながら形成されているように思われます。生きることにほとんど意味を見出せないけれど、生きていかざるを得ないので、その基準を、最も生きている実感を得られやすい、個人の快楽に求めようというわけです。
とはいえ、いつも楽しく過ごしていたい、それが幸せというものだ、というのであれば、人生の最後は必然的に不幸せです。また、幸せになろうとして、幸せを未来に求めると言うのであれば、現在はつねに不幸せな状態だということになります。今が幸せであれば幸せを求めることはないからです。考え方に矛盾があり、幸せを求めれば求めるほど不幸せになる、という悪循環におちいります。この人生観の中に極端なエゴイズムから、自他を大切に思うヒューマニズムまで含まれている。
唯物論的な近代科学の見方が、追い討ちをかけます。というより、近代科学が提示するコスモロジーを私たちが受け入れ信仰している結果、といったほうが正しいかもしれません。私たちの世界はすべて物質に還元でき、生命を構成する物質が集積したときに「生」があい、それが分散したときに「死」がある。ただそれだけのことです。「生きている」ことに意味はありません。「生きている」こと自体に意味がないのに、その質を問う意味はありません。質を問う根拠はどこにもないからです。
私たちの生きることの意味を考える視点を仏の光に照らされながら、自分をしっかりと見つめ、生きる姿勢を正されることの大事さを思うことです。社会状況、医療状況も変化しており、死の縁の無量なることを日々、医療現場で経験しています。自分の希望通りに死に様も展開して欲しいが、こればかりは「仏様にお任せ、南無阿弥陀仏」と念仏するしかありません。
「家族に迷惑を掛けたくない」との殊勝な思いもつづめれば、子どもや縁のある人から”良い人、親であった“との評判を気にしている自己中心の思いの表れ、仏法を無視して自力のはからいの結果ではないでしょうか、と伝えます。我々の理知分別の知恵は「ものの表面的な価値を計算する見方」と言われています。そして計算的に考えて自分の思いで思い通り(管理支配)に事を進めたいと思考しています。これが苦悩の原因です。
仏教の思考は全体的(根源的)思考といわれ、「ものの背後に宿されている意味を感得する」見方です。その思考で考えると、縁次第では如何なることも起こる、それならば私の個人的な希望を縁ある者には伝えるけれど、後は「仏さんへお任せ、南無阿弥陀仏」です。そして「迷惑をかける」という心配については縁起の法に依れば、「人間はいろいろな人やものに迷惑をかけずには生きていけない(過去、現在、未来を貫く真理)」ということが縁起の法から知らされてくるでしょう。仏教では、そのことに気づくことの大切さを教えています。
仏教では、あるがままをあるがままに無心に(南無阿弥陀仏と)受け止めることを教えます。江戸時代の曹洞宗僧侶、良寛の友人(友人は1828年の冬、地震で子供を亡くされた)に出した見舞状の中に「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候 死ぬ時節には死ぬがよく候 これはこれ災難をのがるる妙法にて候」の言葉があります。
浄土真宗の教えでは、老病死であっても。これが私の引き受けるべき現実、南無阿弥陀仏、と受け止めるのです。仏さんへお任せするしかありません。そこにはおのずと智慧の受け止めに導かれるでしょう。
中城ふみ子の詩「遺産なき母が唯一のものとして残せし死を子らは受け取れ」のように、終活のどうのこうのではなく、人間は縁次第では如何なる「死に様」をするだろうという、親の「死に様」が子供や孫への教えとして、即ち「人間とは?」「人生とは?」を教える機会です。縁ある者の死を通して人生とは、人間とは、を学ぶご縁にして欲しいということを伝えることの方が大事でしょう。
家族がその親の気持ちを深く受け取れるとき、その親は「人間とは?」、「人生とは?」を教えてくれる、菩薩、諸仏であった、と仏縁のある人は受け取る方向に導かれるでしょう。

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