9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2563)

 「今日。ここを生きる」ことを考えてみました。NHK出版「スッタニパータ、さわやかに生きる、死ぬ」羽矢辰夫(1952-、仏教学者)著、2007年に以下の文章がありました。
 「私の人生は一回だけで、死んだら終わり。だから、生きているうちに、楽しいこと、心地よいことをするしかない。私【だけ】が幸せになることが、人生の目的である」。この思考は、人によって程度の差はあれ、虚無主義と快楽主義と個人主義が複雑に絡みあいながら形成されているように思われます。生きることにほとんど意味を見出せないけれど、生きていかざるを得ないので、その基準を、最も生きている実感を得られやすい、個人の快楽に求めようというわけです。
 とはいえ、いつも楽しく過ごしていたい、それが幸せというものだ、というのであれば、人生の最後は必然的に不幸せです。また、幸せになろうとして、幸せを未来に求めると言うのであれば、現在はつねに不幸せな状態だということになります。今が幸せであれば幸せを求めることはないからです。考え方に矛盾があり、幸せを求めれば求めるほど不幸せになる、という悪循環におちいります。この人生観の中に極端なエゴイズムから、自他を大切に思うヒューマニズムまで含まれている。
 唯物論的な近代科学の見方が、追い討ちをかけます。というより、近代科学が提示するコスモロジーを私たちが受け入れ信仰している結果、といったほうが正しいかもしれません。私たちの世界はすべて物質に還元でき、生命を構成する物質が集積したときに「生」があい、それが分散したときに「死」がある。ただそれだけのことです。「生きている」ことに意味はありません。「生きている」こと自体に意味がないのに、その質を問う意味はありません。質を問う根拠はどこにもないからです。
 また最近ある医療系マスメディアに次のような質問と回答掲載されていました。
質問:なぜ人生はこんなにつまらないのですか?
解答:そう、つまらないですね。平日は働いて、家に帰って寝るまでの僅かな時間はネットをしたりYoutubeを観たり。土日は昼まで眠って、運動不足解消のためランニングして、ご褒美にちょっと買い物。あとはこれの繰り返し。安定はしているけれど、つまらない。決して不幸ではないけれど、だからといって満足しているわけではない。
 「普通の日々を送れることが幸せだ」なんて人は言うけれど、自分はそうは思わない。なのに、この状況を変えようとは思わない。それは、結局そこに居心地の良さを感じてしまっているからだと思います。居心地の良さと人生のつまらなさは両立します。なぜなら、楽だから。何も起こらないつまらない人生は、色んな刺激にいちいち反応しなくても済むから、楽。
 あなたはその理性と合理的思考をもって、今の居心地の良い人生を作り上げたのです。合理性を突き詰めれば、人生はただ食って寝るだけの人生に辿り着きます。それだけが生きるために必要なことだから。だからあなたが捨てるべきものは理性と合理的思考です………後略。
(田畑のコメント)上記の問答は一部の真理を言い当てていますが、解決の方法も理知分別の執われを逃れることが出来ていません。仏教(宗教)でないとこの解決は見いだせないでしょう。仏教の生死の四苦を超える智慧の世界に接点を持ってほしいと願わずには居られません。南無阿弥陀仏。

 現在、日本人の多くは「生きているうちが華だ、死んでしまえばおしまい。」と考えているように思われます。その内容は、普通、我々の発想は,私が生まれるに先だって“宇宙世界があった”,その中の地球に,たまたま生まれて来た。そして何十年か、生活して、やがて死んでいく。死んでいくときは私一人である。私が死んでもその後、依然として世界は存続し続け、残された人の生活はそのまま続けられていくだろう、である。
 私の身がもたらす世界(土)は、私に先だって空間があり、過去・現在・未来と連続する時間が流れている。そして、その時間、空間の中に私は一時期、一定の場所を占めている。 しかし、死ぬことによって「我」は消滅する。
 日本では幽霊の絵は江戸時代、元禄年間(1688-1704年間)に刊行された『お伽はなし』では、幽霊はみな二本足があることになっているそうです。その後丸山応挙(1733-1795年)が夢に現れた奥さんをイメージして幽霊の絵を描いていて、その絵には足がなく宙に浮いているのです。その後の幽霊の絵は、その影響を受けて、足がなく、両手を前に出し、後ろ髪と服が後ろに流れている絵が多いようです。龍大で一緒に仕事をしてお世話になった杉岡孝紀師が「幽霊」について、次のように記しています。(一部田畑が改変)
 幽霊には三つの特徴があるということを聞いたことがあります。私自身は幽霊なるものを実際に見たことはありませんが……。(1)手を前に垂らしているのも大きな特徴の一つです。いつも明日の夢を追いかけて、明日こそ、明日こそと生きる。そして細く震える声でもって「恨めしやー」というわけです。(2)髪の毛が長いということです。過去の執われ、怨みや未練を訴えているのです。(3)足が描かれていないということです。「今、今日」「ここ」ということにしっかりと足を地に着けてない相を示します。そして過去と未来にとらわれ、持ち越し苦労・取り越し苦労で振り回されている。未来は誰にとってもいつも不確かなものです。たとえどんなに過去から学んで未来に備え対処しても、予想を超えた出来事はつねに起こります。だから先の見えない将来は不安で常に心配がつきまとうわけです。
 幽霊は、死者が成仏できないで「怨みや未練」を訴えてこの世に現れる姿を示すのです。
 大峯顕師が、フィヒテ(1762-1814)「生の哲学」において、私の哲学にとって何があるかといえば、いたるところ生命がある。死はない。死はどこにあるかといえば、本当の生を見ることができない人間の死んだ目の中にあるだけである。したがって、人間は死ぬと言っている人は本当に生きていない人で、初めから死んでいる人だとフィヒテは言っています。
 これは真理です。「死が怖い」と言っている人は、ほんとうの「生」を知らないからです。だから、死んだら困る、という人にだけ死があるのです。「死ぬことは阿弥陀さんにまかせてあります」という人には死はありません。これは真理ではないですか。阿弥陀さんは「お前は死ぬぞ」とは仰らない。阿弥陀さんは「お前は仏になる」と仰ってるのだから、その通りに受け入れて、あとは余計なはからいを一切しない。こういう人は死なないで往生するのです。浄土真宗の信を本当にいただいた人はみなそうです。妙好人は死にません。浅原才市は、私は臨終も葬式もすんだと言う。それでは何をしているのか。ナンマンダブと一緒に生きている、と言っています。
 ある念仏者の夫を思い出しながら高齢者の女性が僧侶に次のように語った(「大法輪」 H25年9月号28- )
 住職さん、お盆になると爺さまのことを思い出しますよ。ええ、私の主人のことです。まあ、のんきな人というか、心の大きい人というか、ちっともあくせくしない人でした。私が心配性で「ああでもない。こうでもない」と先々にことを心配するものですから。いつも叱られました。「お前なあ、明日のことを考えても仕方がないじゃないか。明日のことより、今日のことをしっかりやればいいんだよ。分からん奴だなあ」……なんてよく言われました。
 いつでしたか、仕事が一段落して、野原に座ってお茶を飲んでいる時、爺さまがこんなことを言ったのですよ。
 「あぜ道にきれいな花が咲いているだろう。あの花たちはなあ、明日も咲こうと思って咲いているんじゃないんだ。今日をいっぱい、今をいっぱいに咲いているんだ。すごいと思わないか。向こうの柿の木で小鳥たちが鳴いておるだろう。あの小鳥たちはなあ、明日も鳴くぞ、明後日も鳴くぞと思って鳴いてるんじゃないぞ。今をいっぱいに鳴いているんだ。花も鳥も、今を、いっぱいに生きている。ただただ、今を精いっぱい生きているのだ………。明日があると思っていきているのは人間だけだなあ。明日があると思っているから、あれこれ迷ったり、心配するのだ。今日一日と思えば、明日の心配も先々の心配もすることはない。明日があると思うからあれもしておかなければ、これおもしておかなければと、欲が出て来るんだ。わしも花や鳥のように、今日を精いっぱいに、今を精いっぱいに生きていこうと思っているんだよ……。
   お前なあ、今日一日だけと思えば、欲しいものは何に一つなくなるよ。だってそうだろう。今日一日なら財産を残してもしかたがないんだから……。ああ、お花はいいなあ。鳥はいいなああ。今を本当に生きている……。

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