10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2563)

「私」は「今」「ここ」を生きている事実は、誰もが認める明白な、間違いないことでしょう。その時に、「私」とは何でしょう?、どういう存在を「私」というのでしょうか。
 私の存在は時代性、社会性(政治、経済、治安などを含む)、文化性の中で職場や地域・親戚・家族、聞法の僧伽、先輩後輩などの関係性のなかで生きています。更に考えると、生命連鎖の最先端を両親から遺伝子を受け継いで人間として生まれ、育てられ、植物・動物を食べて、水、空気、酸素を利用して「生かされている」という事実は明らかです。
 私の「身の現実」を生きているのは間違いないのですが……、私の自我意識は私の存在の背後に宿されている関係性の世界を当たり前、当然としてしまい、その上で「私の思い」、「私の解釈」を生きています。自我意識の思いを仏教は「虚妄分別」、「迷い」と言います。世間的常識では「私」という確実な存在があり、私の物もある、という前提で物事を考えていますが。
 仏教の明晰な智慧の目では、私の在り方の本来は無我であり、無常と見破って、私の無明(智慧がない)さに目を覚ませと迫って来ているように思います。本来性を失って私の思いを通そうとすると不自然さのゆえに摩擦、軋みが生じ、自然の在り方(本来性)に戻されます、これは法とか道理ということです。
 禅宗の道元禅師の言葉に「仏道をならふといふは、自己をならふなり。」があります。「自分とは何か」を知ることが仏道の一番大切な事ということです。

「仏道を習うといふは、自己を習うなり。自己を習うというは、自己を忘するるなり。自己を忘するるといふ  は、萬法に証せらるるなり萬法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。」「自己をはこびて、萬法を修証するを迷いとす。萬法すすみて、自己を修証するは悟りなり。」(道元の正法眼蔵現成公案の巻2)「自己をはこびて」ということは我見我欲、我をはって偏った考えでもってものごとにあたるということで、自己の外に法があると対立的に考えて萬法、つまり悟りを究め尽くそうとするのは迷いです。それではものごとの真の姿は把握できないのです。萬法は自己の内の問題であり、自己は萬法の内の一つにすぎません。「萬法を修証する」とは諸法、天地自然の道理、真理つまり「悟り」を実践によって悟ろうとすることであります。
 しかし、我見我欲でやることは、たとえそれがどのようにすばらしい実践であったとしても、自損損他(自分を毒し、他人を毒す)して邪悪迷妄なことになるのであります。
 「萬法すすみて自己を修証するは悟りなり」については、これは前段の「自己をはこびて」の逆であり、我執妄想を離れ、対立観念を持たず、萬法と一体になって天地万物の中の自己であるということをわきまえ、天地自然の道理に従って生きるならば、自ずとそれが悟りであるということです。自己の実践がすべて道理にかなっているならば、悟りが自ずと身に現れるのであり、悟りの体顕であります。天地万物同根として自己が何であるかということの究明になります。
 関係性ということを理解しても、考える基本の所で、私のまわりを対象化してみて分別でとらえると都合の悪いものを受け止めることは苦痛になって目の上のタンコブのように、ストレスになり一体になるなんてとんでもないということになります。分別、虚妄分別、解釈、思惑で眺めるからです。

 関係性を「あるがまま」に見る、それを無分別智と言います。分別しないとは、現前の事実は私と関係性がある、即ち、この事実、現象、人物などは私に関係するとは、「物の声を聞く」のです。分別の眼で見ることは避けられないが、同時に、この事象は私の何を教えよう、気づかせよう、目覚めさせようとしているかとひと呼吸して受け止め念仏して思考するのです。これは実験して推敲するしかありません。あるがままを「如」という。「ある」ように「ある」。ようにを「如」という。しかし、私はあるがままを生きてなくて、私の「思い」、「解釈」、「思惑」を生きているということができます。
 私が病気をしたとします。すると私の自我意識にはいろいろな思いが起こってきます。「何で私がこんな病気に!」。「死ぬんじゃなかろうか?」。「死んだら今まで積み上げてきたことが『無』になる」。「私の存在価値が否定される、忘れ去られるであろう」………。あるがまま、現前の事実に目覚めることは、ある事が当たり前ではなく、関係性の中で、今日まで生かされてきた、固定した「私」があるのではなく、一刹那ごとに生滅を繰り返す、あり方で、いつ死んでもおかしくない、有ること難しの「生」を生きていたと気付くでしょう。
 仏の智慧、目覚めた目で見ると、私の分別は虚妄分別であったのか。嘘をいくら重ねても真実には届きません。結果として生きても生きたことにならない、虚しい、空過流転の繰り返しです。
 次のような経験をしたことがあります。C型肝炎から肝がんになった患者ですが、ガンが発症する前、医大から来る専門医の定期的診察をうけながら、ガンになる率を低くする治療を私が担当しながらの診察室での対話です。取り越し苦労して愚痴みたいにいろいろいうので、仏教の勉強を勧めたら、「仏教の勉強をするにはまだ早い(当時平均寿命を超えていた)」。真宗の門徒と分かったので念仏の心に接することを勧めると、「訳の分からない南無阿弥陀仏だけは言いたくない」「世界地図を探しても浄土なんてどこにもないですよ」と発言されていました。
 がんになる率を下げる治療だけは熱心に受けていましたが、85歳の時、専門医による検査でがんの発症を知らされた。その後の対応の中で「運命だ、あきらめるしかない」と発言された。その後の私との対話の中で、患者の発言から知らされたことは、理知分別はけなげに健康で長生きを努めていたが、最後に「運命だ」と発言してしまったということがありました。
 自我意識の理知分別は自分の身を引き受けて責任者として頑張ってきたが、最後には「運命だ」、と言って白旗を挙げたということです。我々の分別は自分の身を引き受ける責任者として、この世で全うできないということです。
 そのことを見抜いたのが仏の悟り、智慧です。そのはたらきを如からのはたらき「如来」と表現して、法蔵菩薩は五劫の思惟の末、本願として「南無阿弥陀仏(汝、小さな殻をでて、大きな世界を生きよ)」を選び示されたと浄土三部経に説かれているのです。南無阿弥陀仏は無量寿・無量光を私に届ける(迷える私に呼びかけ、迷いの事実に気づくように呼び覚まし、あるがまま「如」の世界へ呼び戻す)方便(法身)です。
 無我の“私”は「今」、「今日」しか生きることはできません。「今」の時に、1時間前や1時間後を生きることはできません。また、「今」の私は宇佐市でしか生きることはできません。今、北海道やアメリカを生きることはできないのは明白です。
 「思い」と「現実」の間に差があると不満で時に苦悩になります。思いと現実に差がなければ苦にはなりません。ということは私の「思い」の在り方が、苦悩の本ということです。
 「あるがまま」、「如」を受け取れないのはあなたの「思い」、「解釈」です。自我意識の深層に煩悩が潜んでいて「あるがまま」を受け取りたくないのです。それはあなたの分別が煩悩によって現前の事実を間違って認識して、間違った思いに操られて振り回されているからのです。仏教はそれを虚妄分別、迷いと言って人間の思考形態を見抜いているのです。
 自我意識の迷妄性に目覚める時(単に見方の違いではなく、ひっくり返されるのです)、迷妄性の上に迷いを積み重ねてきた人生を継続することは潔(いさぎよ)しとしないのです。あるがままの存在性、無量・無数のご縁の関係性の上に存在が支えられていることに気づき、目が覚める者は、自分になされたご苦労を知らされ、自然と頭が下がり南無阿弥陀仏と懺悔・合掌する。そのことで気付いたことは「自らに由る」、自由ということであった、あるがままの存在の事実であったと全身で納得し、私に成るきる道であったと念仏し。今、ここで私のはたす役割、使命、仏からいただいた仕事と念仏して受け止め、粛々と安心(あんじん)の道を歩むことに導かれます。

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