12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2563)

「現代と親鸞」(第二回)『“生”の背後に宿る無量のお陰に気付く』
「老病死の受けとめ(下)」

老いをどう生きるか
 医学史学会の創設者の一人、富士川游は昭和12年「医術と宗教」の中で両者の関係の大事さを医学界に発信して「病気」ではなく「病人」を診る視点の大切さを述べています。全人的、そして人生を見据えて医療をされた仏教者の存在を最近知りましたが、当時、注目した医師は少なかったようです。
 最新の日本人の死因の上位が悪性腫瘍、心臓血管障害、老衰、脳血管障害、肺炎となっています。肺炎も超高齢者の加齢現象が関係しており、加齢が関わる死因が約7割です。それらは病気と闘うというよりは生活習慣病の面が強いです。即ち生き方や生活習慣が関わり、老いをどう生きるかが問われるということです。
 今年の年頭に某新聞に「遠のく死、問われる生」と題して世界の医療事情が掲載されていました。そこには、(1)老いの抑制、「老化を防ぐ研究が着実に進んでいる。」(2)臓器の交換、「ブタなどを使い臓器を作る、そして部品のように生きた臓器同士の交換が始まる。」(3)そして脳と機械の融合「脳波で操るロボットアーム」の研究が進めば、2050年には不老不死に近づくとされている。さらに、「老後」が死語になれば「支える側」として働き続けることが求められ、社会保障の考え方が変わる。研究者約300人に「人間の寿命は何歳まで延びるか」と尋ねたところ「150歳」が最も多かったという。家族も4、5世代が同じ時代を生きる終わりなき社会。長寿が実現できた状況で、最多になる死因を尋ねると、自ら生の長さを決める「自殺」がトップだった。

臨床の場で宗教の関心
 ローマ時代の哲学者セネカは人の「生」がたとえ千年以上続くとしての「生」の浪費(空過)を嘆き、死があるから「生」がある指摘した。限られた生の中で「善く生きること」の意味を問い続けてきた。しかし、死が遠のけば遠のくほど、問われるのは一刹那に過ぎ去る「生のあり方」です。仏教が2600年の間、生死の四苦を超える道を課題としてきたことが、あらためて注目されます。
 臨床現場での医師の関心事は病気であって、患者の人生観、生死観、価値観は私的なこととして、一歩距離を置いて、関わらないようにする雰囲気があります。患者の情報は病歴を詳しく聞いて把握しようとしており、全人的把握に努めていますが、宗教の項目はあっても記載内容は少ないです。患者も医療者も宗教への関心は少ないためか、臨床の場で老病死に直面する時、宗教者を呼んで欲しいとの声を私は患者から聞いたことは40数年間でありません。
 高齢者社会で多死時代となり平穏死、尊厳死、安楽死等の死にざまが話題となることが多いが、生きる意味や生きざまは話題になりにくいです。救命・延命治療を受け延命できたとしても、そのことを喜ぶのではなく、当たりまえ、当然のこととしてしまう……。治療を尽した結果の病死や、老衰に近い状態で患者の「生命・生活の質」を配慮した対応の努力をしても、縁者からさらなる救命・延命治療をしないのかと責められることもありました。

生死の苦もご縁として
 「縁起の法」では、縁次第では如何なる振る舞いもあるのが人間です。死にざまは穏やかでありたいのですが…、縁次第で種々の状況が起こり、思いどおりには行きません。大切ことは平生の「生」のあり方であり、「生」の背後に宿る無量のお陰に気づく仏智です。
 哲学者フィヒテは、今を十分に生ききっている人は死を問題にしない、今日を十分に生ききれてない人、今に未練のある生き方の人が「死」を煩い、恐れると指摘しています。清沢満之は「天命に安んじて人事を尽くす」(その結果は仏へお任せ)と生死を超える念仏の生きざまを教えてくれています。
 人生の岐路に当たって悩んだ時、師より頂いた手紙の一節の「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずることは、今までお育て頂いたことへの報恩行です」は、私の生きる姿勢を正させるものでした。
 また師の「人生を結論とせず、人生の結論を求めず、人生を往生浄土の縁として生きる、これを浄土真宗という」の言葉は、生死の苦も、往生浄土のご縁として念仏して受け止め、「生かされている」ことではたす役割、使命を粛々とはたし、後は「念仏する者を浄土に迎えとる」の本願を南無阿弥陀仏と憶念します。

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